I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

教育を仕分けました。

センター試験が近い。
センター試験は今でも夢に出てくるほど緊張の経験だった。


さて、さっきラジオを聴いていたら、光浦靖子東京外国語大学を卒業したにもかかわらず英語が話せないという話がされていた。
それが謙遜かどうかはさておき、私は思った。もしかしたら、英語に限らず他の科目においても実践の用をなさない半端な教育がなされているのではないか?


現在の入試制度を否定したいのではない。目の前に入試があるならそこから逃げてはいけない。社会に出たら自分に与えられた仕事を着々とやる、それがプロフェッショナルの流儀だ。
入試は青年が社会に与えられた最初の仕事なのかもしれない。まあ、顧客の要望だとでも思って良い得点を目指すのがいいと思う。


しかし、現在の教育制度をひととおり受けて、大学を卒業した今の私の立場からなら、少しくらいモノを考えても許してもらえるだろう。
現在の教育は、「鑑賞」のレベルであり、「演習」に乏しい。だから、アウトプットの教育機会を増やすために高校を廃止するのが私の考えた。


今後の日本の成長戦略を考えるうえで教育の「内容」は重要な問題だ。民主党は教育の「機会」に重点を置いており、足りない。


これまでは「演習」の部分は卒業後に会社で習得してきた。
日本の経済成長を支えた人材を築いたのは「学校」ではなくて「会社」だった。
そう考えると、将来の人材育成の環境は非常にピンチの状況にある。

なぜなら、正規雇用を前提とした雇用環境のなかで企業は従業員を教育してきたが、これからは雇用の非正規化など雇用環境が流動化するため、会社は従業員の教育に力をそそがなくなるから。


だから、人材育成における教育機関の役割は高くなる。
また、教育機関において人材の質を一層高めることができれば、会社の従業員教育投資費用を抑えることができ、資本を他の生産性向上策に振り向けることができる。


そのためには、授業における演習の機会を増やし、授業を受身から能動的なものに変えて、使えるスキルを身につける内容に変えていくことが重要だと思う。


しかし、このように言うと想定される反論として、

  1. 会社や親の学歴志向が残っており、入試制度があるかぎり現在の詰め込み型からは変えにくい。
  2. 現在においても基礎的な学力が不足しており、演習に振り替える余地はない。


だったら、こう改革したらどうだろう。
高校を大学の後にして演習主体の専門的教育機関に変える。
つまり、中学→大学→専門学校とする。


この専門学校は、現在の司法制度にける法科大学院や、今検討されている教員養成における大学卒業後の教育機関のようなものを想定している。
専門スキルが必要な人は、このような専門的教育機関で継続的に勉強すればいい。


大学受験のために10代のほとんどを試験勉強に費やすのは無駄だから、中学を卒業したら大学にして、試験勉強の期間を減らすというこの考え方の根本には現在の高校で学ぶ事が、あまり後で役に立っているとは思えないという実感があるからである。
つまり、習ったことはすべて忘れてしまうのである。
また、世の中をみても学歴と社会的貢献はかならずしも一致していないのは日本人全員が知っていることであって、それでもなんとなく大学信仰は残っているというのが日本人の常識だとしたら、高校はやめて大学入学を早めればいいのである。


大学での教育水準が下がるという反論が想定されるが、大学では今の高校で教えていることも教えればいい。
大学教授の授業負担が大きいというのは、よく聞く話なので、そこに高校廃止で余る教員を充てればいい。
試験のための勉強がなくなる分、教える内容を少なくできるだろう。数年前に試験科目にない他科目を一切教えていない高校が多数問題になったくらいであり、試験がなくなればほとんどの授業がなくなってもかまわないという暴論に教育現場は反論できないのである。


大学に入るために、将来忘れてしまう暗記を繰り返して貴重な10代を過ごすよりは、そんなことは早めに終わらせて実際に必要なスキルを早くから身につけることが重要だ。


だいたい、スポーツでも囲碁将棋でも芸術の世界でも才能のある人は若いうちから専門的で実践的な訓練をつむことが当たり前になっている。
ゴルフでも18歳がトッププロになっている。
勉強だけが20代前後になってから大学に入って専門的な訓練を受けるという現状は、たぶん間違っている。


また、これから人口が減って労働力が不足するのだから、高校の3年間をやめてしまったら、その分早く社会に出てもらえば労働人口にプラスできる。
そうなれば、成人を18歳に早めるのと整合する。
また、家計における教育費負担も軽減される。


それでは、演習的な教育とはなんだろうか。


まず、英語
上記で、外国語大学を卒業しても英語を話せないという話があった。私の経験上もTOEICの試験を受けたら知らない単語や言い回しがあり、得意と思った読解で点数を稼げなかった。ドイツや韓国の人と一緒に話したときの共通言語は英語で、彼らは当然のように英語を使っていて日本人だけが会話に入れない。


NHKの『英語でしゃべらナイト』でみたが、たしか世界で英語を話す人のうちネイティブは4分の1だったかとにかく少数派で、ほとんどがノンネイティブらしい。ノンネイティブたちが、とにかく話しているのが世界のコミュニケーションだということをもっと早く知っていたら、肩の力を抜いて英語を勉強できたのに。
思うに、日本人が外国人の英語が聞き取れないのは、外国人がよく使う単語やフレーズを習っていないからではないか。そして、比較的ノンネイティブの英語が聞き取りやすいのは、似たような学習方法により学んだ単語やフレーズが近いからではないか。


もっと、日常会話、ニュース、ビジネスを題材にした教材を使って勉強して実際的な単語や文法を学ぶことが必要かもしれない。
また、実際に外国人と話す機会についても、英会話学校と連携するとか、インターナショナルスクールとの交流を増やすなどにより、異文化コミュニケーションを重ねていくことが重要だ。


国語
読んで感想を答えるだけの授業はおしまいにして、もっと書くことに重点を置いた学習にする。読書感想文や時事問題に対する小論文は当然のこと、募集チラシや、道具の説明書や学級新聞など、ビジュアルに分かりやすい説明用の文章を多く書く。

また、国語の勉強は国語の時間だけのものではない。
国語はすべての学習の基本であり、正しく日本語が理解できないと理科も社会も正直分からない。勉強嫌いの原因が国語の能力不足である可能性が高いので、他教科においても国語の勉強の延長と思ってフォローする必要がある。
例えば、社会理科の時間に理解したことを図表にして説明させる。言語以外の表現をさせることで、教科書という日本語を正しく理解できたかどうか判断できる。また、レポート形式の報告をテストの一部にするなど、日本語の表現能力を高め、読解力を確認することは社会理科の時間でも可能だ。

人に説明することを前提として学び、文章を書くというのは、ただ「鑑賞」する態度とは違って学びを能動的にする。
例えば、相手が何を質問するか、ポイントは何かと考えて、自分の考えを整理し、事実確認し、文章を推敲して分かりやすい説明のための労力を一層使うからである。
だから、他教科においても学んだ事を誰かに文章にして教えることを前提とすることは、国語の能力を高めるだけでなく、その教科の理解を一層深める。


数学
数学は必要かという問いに対して、よくある回答が「論理的思考を身に着ける」である。
しかし、論理学を学ばないし、場合分けなど証明に用いる技法を意識的に勉強することもない。論理的思考を身に着けるというのならもっと数学をそのスキルとして意識的に「見える化」して教えて欲しい。


ただし、入試において数学は有能な受験者を選別するモノサシとして優れている。
例えば医学部は入試社会の最高峰であり、数学が入試科目にあって最高の数学能力が問われる。
しかし、その「最高」の能力は医学の勉強に必要なのだろうか。どうして将来数学や物理を勉強する学部よりも医学部の受験生のほうが数学でたくさん点数をとれる能力がないと合格できないのか考えると、やはりロスがあるように思える。


社会
自分自身、試験科目だった世界史のことしかよく分からない。また、その世界史ですらほとんど忘れた。たとえばエジプトに旅行にいったとしても気の利いたウンチクひとつ発することができない。
「ただ暗記すると忘れるから、歴史の流れや人物の考え方などにまでに関心を及ばせてストーリーを作って理解すれば忘れない」といわれ、そのように勉強したので、試験では成果を挙げられたが、それでも大学2年生にもなればほとんど忘れている。


歴史を学ぶ意義は、歴史に学び将来に生かすことだと先生は言った。
しかし、実際の勉強は時系列に進み、歴史を生かすことに乏しかった。
時間軸で横串を刺して、例えば西暦1600年には日本では、ヨーロッパでは、中国ではこうだったというような勉強は時系列の整理にすぎない。
しかし、「人権侵害」「革命」「途上国の発展」「貿易/貨幣」「独裁政治」など将来のために覚えておいたほうがいいキーワードで歴史を横串するような勉強も重要ではないか。


年表のような時間軸の参考資料ではなくて、「キーワード別」に世界を横串した参考資料があったら読んでみたい。
例えば「人権」だったら、ドイツのナチスの大量虐殺、アメリカの黒人差別、日本の士農工商とインドのカーストとの比較、などを取り上げてそこから将来に役立つ何かを見つけるような勉強がいいと思う。
今の鳩山民主党だって、歴史的にみたらこれ以上一党の権限を増やすような選択を国民はしないほうがいいというのは、各国の独裁者の誕生の過程をみたら分かる、ヒトラーだって最初は困難期に現れたヒーローだった。ただし、困難期には強いリーダーシップをもってスピードももって事に当たることが重要だということも歴史は教えてくれるかもしれない。
このように、歴史を学び、議論するところまで学習が進むといいと思う。


また、政治や公民の授業は今後重要になる。
キャリア教育(将来どのように働くか)、株などの金融社会に対する心構えなどのために、実際に現場を歩く経験はどんどん重要になる。
具体的には、キャリア教育が意外と両親やアルバイト先、テレビの偉人伝などでしか得る事の無いという現状は少し選択肢が少ないと思う。もっと、多様な職業や、もっといえば人生設計(結婚するのかしないのか、老後のことなど)を意識するように会社訪問や老人福祉施設訪問や民間専門家の授業など教科書を離れて現場に触れることが重要だと思う。
さらに、インターネットなどの情報氾濫社会においては、情報を扱う能力が重要になってくるが、意外とネット社会というのは、本人が関心もつ狭い間口で多くの情報が届けられる傾向があり、大げさにいえば本人の人格形成の幅を狭める場合があるから、それを補う幅広い世間というものを認識させる授業が求められる。


理科その他
その他の科目はまったく記憶に残っていないので書くことが無い。


以上。
この見直し策は、自分の高校時代が元になっているので、認識が古いかもしれないけれど、まあ消す事もないだろう。