I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

社会と死と


今春、マクドナルドにて、思慮深そうな若者が「自殺者をゼロにしますって政治家より、2割減らしますって現実的なところに落としどころを示す政治家の方が信用できるよなあ」と語り合っていた。


8月に発表された政府の自殺総合対策大綱が、本当に「2割減」を目標値にしたと知ったら、かの若者はどんな反応をするか見てみたい。
大綱にも書かれているように、2割減っても年間2万5千人は自殺する。この「現実的」目標、政府が予め想定する死者数について、どう受止めたらいいのか実際よく分からなくなった。


例えば、交通事故者数については、信号の設置など政府の取組により20年前には年間1万人強だったのが、昨年は5千人を切るところまで減少した。
それでも、年間5千人も死んでいて、おそらく戦後70年で数十万人が交通事故で亡くなっている(戦争に匹敵)のに、自動車は無くなるどころか、地方でも自動車無しの暮らしが想像できない。自動車ありきで住宅地や商業地の立地が進んできたからだ。


例えば、震災の想定では、「震災が起きたら」という条件付きで死者数が想定される。政府が死を予測する地域に住み続ける人がいるとすれば、それは自己責任となるのだろうか。今後10年間でかなり高い確率で関東大震災が起きるとされるが、東京の人口は減るどころか増えている。


例えば、高齢者の孤独死も問題となっているが、だからといって地域の高齢者の住宅を毎日巡回するべきだという話が盛り上がっているとは聞こえないし、高齢者を集合住宅に住まわせて健康管理するなんて話にはならない。そんなことは、高齢者本人がお断りしてくるだろう。


上記の例からみると、社会において、自由や便利は死に優先している、と言えるだろう。いや、自動車が無ければ食料が運搬されず東京に住む一千万人が餓死するだろう、という議論もある。明日は自分かもしれない犠牲のもとでしか現代人の生活スタイルが成り立たない、とういうことだろうか。


しかし原発、おそらく東日本大震災より以前に原発の危険性は国民的議論にならなかったが、今は原発の利便性を捨ててでも安全が欲しい、安全の優先順位が原発の利便性を上回りつつある。


このように、上記の交通事故死、震災危険地域、高齢者の孤独死も、自由や便利よりも死者を1名も出さないことが至上命題となる日が来るかもしれない。
具体的には、生活に寄与する物資等の輸送以外には自動車利用を許可しない、震災で死者が想定される地域には一人も住んではいけない(東京23区には一人も住めない)、高齢者の住宅は毎日見回りするか集合住宅に転居させて見守る。


これらはSFやホラーに聞こえるだろうか、踏み込みすぎだろうか。
だが節電、というものを考えた時に、先の震災までは、商業施設の照明が少なくなったり、エアコンの使用抑制、工場の稼働制約などまで「踏み込んだ」対策は常識外であったが、震災以降は定着しつつある。


文明の進歩や生活スタイルの変化により「個人の自由や便利」が増えると同時に、個人のB「死」が内包されている現状において、政府の取っているバランスは今のところA>Bであると思うし、我々国民もある程度Bを仕方の無いものとして受止めているように思える。
しかし、交通事故死が年々減少しているなど、Bを少しでも減らそうという努力は重ねられており、社会的関心が高まれば意識も変わるだろう。ただ、高速バスやいじめ自殺など事件が起きなければ焦点が当たらない問題があるときに、なんか残念な気持ちになる。便利さに慣れ、死にきちんと向き合ってないのではないかと。


死は社会の活力を削ぐ。


憲法には「基本的人権の尊重」がうたわれ、「生存権」の保障がある。「生存権」は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利である。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本国憲法前文より抜粋)


憲法前文でいう安全と生存は、政府に戦争を起こさないよう命じることで安全と生存が守られるという、誤解を恐れずに言えば楽観的なものである。
しかし、これまで述べたように昨今では、文明の利器や生活スタイルの変容が死を内包するのであり、政府は戦争以外の社会的要因からなる死からも国民を守らなければならない。


対策も意識も道半ばだ。


言い換えると、憲法は戦前の政治体制の反省から、国民の権利について記載され「生き易さ」を追求してきた。しかし、その反作用として死があるときに、政府は自動車の使用規制や、震災対策や老人福祉措置としての集団移転などにどこまで踏み込めるのか、また国民はそれを是とするのか(誰も自分が交通事故に遭うと思わないし、震災で死ぬとは考えない楽天性がある)。


考えても結論は出ないし、これは建設的な議論なのか何なのかも分からないが、自覚していないよりはマシだろう。