I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

セクハラと差別と人権侵害


「離婚しろ」はセクハラでなく、「結婚しろ」はセクハラなのはなぜか考えていると、妻に話したら、「どっちもセクハラだよ、セクハラは言われた人がどう思うかだから、何を言うか、誰が言うか、その状況によってセクハラになり、セクハラにならない、難しいんだよ」と言われた。


「離婚しろ」はセクハラでなく、「結婚しろ」はセクハラなのはなぜかの問いで、私がこだわるのは、「離婚しろ」と言われた人は結婚していて、「結婚しろ」と言われた人は結婚していない。
結婚していない人への言葉だけ言葉狩りされるとしたら、そこにどんなフィルターがかけられているのかなという。


そこには、結婚していないよりはしている方がいいという前提があると考える。そのような発想があるから、塩村都議が傷つくという発想が生まれ、塩村都議への発言が差別だ、侮辱だとする論調になる。


でも、これが差別だと認めたくない。例えば「おまえキレイだなあ」はよくて、「お前汚いなあ」は差別だとすると、汚いよりはキレイな方がいいという社会的なコミットが前提となる。
「結婚しろ」が差別だとすると、結婚していないよりはしている方がいいという社会的コミットを認めることになる。


残念ながら、今回のヤジ報道は、結婚している方がいいという偏見を再生産しただけのような気がする。


今回のヤジは、塩村都議が泣いたので、傷つけた。だからセクハラ事件ですな。
でも、この件に関する報道は差別的でした。


「結婚」は男性も女性もするし、「子が産めるのか」というヤジがあったとしても男性原因の不妊だってある。
今回のヤジを捉え、塩村都議は女性だから「女性に対する侮辱」と書かれているけど、女性にも男性にも当てはまる侮辱なのだから、事の問題を「女性」ばかり焦点当てるのは逆に女性差別的では。


これは憲法違反。性別は本来、関係ない。


名乗らず一方的に相手のことを悪し様に言い立て、反論できない状況までを衆人環視のもとで晒し上げる。これを侮辱と言い、人格侵害だ。
ヤジが「結婚しろ」でなく「顔洗え」「髪切れ」だったとしても問題だった。自己決定権の侵害だ。