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根暗なマイハートのネジを巻け!

親鸞

親鸞 (上)親鸞 (下)


五木寛之親鸞』の感想文。


まず、仏教の流れを復習。
『もういちど読む山川日本史』を読んでまとめるとこうだ。


奈良時代 8世紀〜
仏教の役割は平和を祈る事であり民間から離れた存在


平安初期 9世紀〜
密教化し貴族文化とむずびつく時代


平安末期 13世紀〜
多くの教えの中から一つの方法(念仏、禅、題目)を選び、それで救われるという教えが、庶民、武士、貴族にいたる様々な人々にひろまっていく


このような流れを頭のすみに置いて、五木寛之氏の親鸞、五木親鸞を考える。


平安末期からの戦乱と飢餓により、この世は仏の教えもすたれる末法の時代であると説く仏教思想が、一般の人々に真実のようにうけとめられた時代。
そのような時代の人々の救いとして、法然親鸞の説く「念仏する者は救われる」という教えは、ひろく受け入れられた。


選ぶ=棄てる
法然親鸞は、もとは天台宗に学び、多くの修行や知識を習得した僧である。そのなかから「念仏」だけを掴み取った。
しかし、親鸞はとにかく悩んだ。仏教の多くの教えの中から、本当に念仏だけでいいのか。また、自分に法然を継ぐ資格があるのかと。
そして、彼なりの決意をする。

「私は浄土にはいったことがありません。ですから、師の言葉を信じるしかないでしょう。信じるというのは、はっきりした証拠をみせられて納得することではない。信じるのは物事ではなく、人です。」
法然上人が、わたしを信じてくださっているからです。(中略)だからわたしも法然上人についていくのです」

さらには、師の教えを忠実に学び取り、その核心を発展させ、親鸞を自ら名乗り、清々と師のもとを巣立っていく。



我々も、生きるうえで多くの選択をする。そして、その選択が正しかったのが、不安や後悔に悩まされることもある。
そんなときには、迷い苦しみ成長した先達の姿を思い出したい。




危うさ
阿弥陀仏の、どんな悪人でも浄土に迎えてやりたいとする願いを信じ、応える声が念仏
本書を読んで、このように私は理解した。
また、本書は念仏の教えを「とても危うい」と表現している。
理由は、これまでの仏教勢力の考え方を排除し、「お手軽な念仏」「悪さし放題」という誤解を生みやすい点にあるとされている。


旧仏教に比べ、念仏の教えには以下の様な選択と展開がある。

  • 厳しい修行 × 念仏だけ!
  • 自発の祈り × 阿弥陀仏の呼びかけに応える念仏!
  • 自力主義  × 他力本願*1
  • 戒律、善行 × ありのままで大丈夫!
  • 善人、悪人 × 人の心には善も悪もある!

これらについて、五木寛之と読者との対話のように小説は進行する。
新聞連載だった本作品は、五木氏の辻説法だったのかもしれない。


その意味では、本書で提起された問いのうち、下記について充分な答えが出ていないように思う。

  • 「他人の幸せを願う(祈り)」×「自分の心の平安を願う(念仏)」
  • 「信じる者」×「信じない者」


社会の平安を祈るものと、個人的な心の平安を求めるものと、そのどちらか一方しかないとするならば、私は不十分だと考える。
五木氏は、登場人物にこう語らせている。

「朝廷を守り、世の人々を守る、このための真摯な祈りこそ真の仏法だ。(中略)その祈りを、あの男は完全に否定している。どんなことがあっても、絶対に許してはならない」(慈円

「いまでも民の暮らしは大変です。それよりもっとつらいのは、(中略)みなが不安をかかえて暮らしていることでしょう。(中略)その闇に光がさせば、生きる力もわいてくる。」(親鸞


また、親鸞の考え方は、
善行をなせば救われる→悪人でも救われる→そもそも人間に善人も悪人もない(親鸞ココ)
というブレイクスルーがあるが、もう一歩進めれば、

  • 信仰すら必要ない

言い換えれば、

  • 信仰の意味は何か

という問いに行き当たる、と私は考える。
親鸞が夢のなかでこう問われている。

「最後まで仏を信じない、といったらどうする?」


続編が予定されているらしいから楽しみだ。




最後に、印象に残った一節を挙げる。
越後に向かう親鸞が、うまくやれる自身がないと妻にもらし、「わたくしたちには、念仏という大きな支えがあるではございませんか」と励まされる場面だ。
念仏は、例えるならカーナビで、人を支えるのは、やっぱり人なのだ、一緒に歩む人がいるから前に進めるのだと、ひとり感動した。


仏を信じない人は、カーナビがなくても目的地にいけると思っている人だろう。たしかに、人生の道しるべは、仏教でもキリスト教でも、科学でも、何も無くても、人それぞれでいい。
そういえば、最近の私の話であるが、山歩きで道に迷ってしまい、とても不安であったが、結局道は正しくて、道標にたどり着いて安心したという経験をした。
道しるべは道を示してくれて、何より安心を与えてくれる。
「念仏は道しるべ」
それが、先に積み残された問いに対する私の答えである。*2

*1:阿弥陀仏の力にすがること

*2:『嘆異抄』を読めばまた少し分かることだろう