- 作者: 杉浦明平
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/09/18
- メディア: 文庫
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歎異抄を読んだ。
とても率直な内容で何度でも読みたくなる。
五木寛之『親鸞』に、歎異抄のエッセンスがほぼ盛り込まれていたんだなあと思った。id:horikita800:20100815
五木親鸞のなかで、答えが積み残されていると私が考えている問いを、歎異抄から拾い出したので書いておく。
1「他人の幸せを願う(祈り)」×「自分の心の平安を願う(念仏)」
理想(平和、周囲の幸せ)か、現実(自分の心の安定)かという問いに置き換えることもできるが、自分の救いで精一杯という親鸞の教えは、自分本位すぎると思っていた。
歎異抄を読むと、第4章に、他力本願と自力主義とについて書いてある。
親鸞は他力本願をとる。だだし、阿弥陀仏が助けてくれるのは浄土へ往くことについてだけであり、現世の災いを除いたり福をもたらしたりすることについて阿弥陀仏は関知しない。*1
世間様を救おうと思うなら、自分が極楽往生を果たし仏になってからやりなさいと説いている。
そして、自力主義を人間にそこまでの力はないと否定するだけでなく、自分勝手で仏の救いを信ずるに欠けたふるまいと断ずる。
素人考えでは、仏というのは、現世における民の願いを聞きいれ、除災招福をもたらすものだと考えていたが、浄土真宗においては違うようだ。
ある意味、とことん現実的で清々する。
現状を憂うよりも、現状をどうにもならないものと割り切り、肯定的にとらえて生きる覚悟ができるというものだ。
思うに、親鸞の生きた時代は、飢饉など不安定で不幸だった。それを身をもって体験していた親鸞は、仏教の呪術的な力や、加持祈祷の効果に限界を感じていた。
だから、仏教の役割はもっぱら人間の内心の問題とし、仏教の呪術的な力で世の中に福をもたらしたり災いを取り除いたりすることなんて無い無いとドライに考えていた。
要するに、親鸞が心の平和だけを問題にしているのは自分本位なのではなく、宗教の役割に一定の区別をつけていたからだと考える。
親鸞は、自己の救済のための善行や修行(自力主義)は認めないが、世の中を良くするための慈悲の実践は否定していないとされている。
2「信じる者」×「信じない者」
すべての衆上を救いたいという阿弥陀仏の願いや、むしろ悪人を救うために念仏はあるという親鸞の考えを突き詰めると、仏を信じていない者だって救われてよいのではないか、という疑問。
これについては、歎異抄の第17章に、まことの信心に欠けていた念仏信者は、阿弥陀仏の本願を疑ったために死後辺鄙の浄土に生まれるのだが、ここで疑った罪を償ったのち、はじめて心の極楽浄土に生まれ変わって真の悟りを開くと書いてある。
私は無宗教*2だが、そんな自分でも先月、御岳山の奥の院で思わず発した感謝の言葉*3、これは念仏だったといえるかもしれない。
信心の定まった一回の念仏があれば浄土へ往けるとされるが、「たとい法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」と親鸞が語ったように、痛切な願いと疑念とをむき出しにしている点、それが歎異抄の魅力に他ならない。
レンブラントの『放蕩息子の帰還』という絵。
放蕩息子の足がボロボロで、本当に大変だったんだなと思う。