I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

裁判員制度


日本の裁判員制度が死刑と向き合っている。
ただし、生真面目な日本人のことだ。きっと普遍的で公正公平な結論を導きだすべきと大変な苦悩を重ねてしまうことだろう。


裁判への市民参加を思うに、諸外国のような地域ごとに民族、宗教、差別、偏見が複雑な社会では、その地域が納得する結果を導き出す仕組みとして裁判への市民参加に一定の意味がある。
一定の意味とは、市民感覚という理外の理を裁判結果に持ち込み、それが公正な手続きとされているという意味である。


一方、日本のように単一的で公平さを気にする社会では、むしろ職業裁判官による相場的・一律的な判断がなじむような気がする。


ここで論を終われば歯切れがいい。
しかし、今の時代背景を踏まえると少し無責任な気がするから、話を先に進めよう。


日本社会も複雑になってきている。
終身雇用は崩れ、結婚の有無、子どもの有無などライフスタイルも様々で、価値観が多様になっている。
また、経済や社会のグローバル化も進み、日本も民族、宗教的に複雑な社会になることだろう。


このような状況の今、裁判員制度が導入され定着していくことは時機を得たことだと私は肯定的に考えている。


要するに裁判員制度とは、複雑な価値観の社会において、市民参加という手続きを通して、判決を社会的に正当化する装置なのだ。
このような意味から裁判員制度を考えたとき、裁判員の役割は、自分が感じたとおり、思ったとおりの議論を尽くすことだと考える。
普遍的に、類型的に、過去の事例を踏まえて、など考えていたらそれこそ職業裁判官と一緒になってしまう。
開き直っていいのだと裁判員に選ばれた先輩方に申し上げたいのである。


さらに、裁判員の下した決定が被告の運命を決めるわけでも、ない。
被告が裁判結果に不服があれば、高等裁判所において職業裁判官による裁きの機会がある。
職業裁判官の判断は、ある程度類型的で相場的で予想がつき易いものだとして、被告が、つまり国民は選べるのである。
市民の裁判がいいのか、職業裁判官の裁判がいいのか。


ひとつの事件において、裁判員裁判の結果と、控訴した際の高等裁判所の結果の2つが出揃ってきたときの被告の対応、国民の反応などが複数例出たころに、裁判員制度の検証と新たな展開の見立てができることだろう。
長い話だ。

「黒人射殺警官に懲役2年軽い」と警官隊と衝突【ロサンゼルス=西島太郎】


カリフォルニア州オークランド市で2009年1月、無抵抗の黒人男性(当時22歳)を射殺したとして故殺罪に問われた元警官(28)の裁判が5日、ロサンゼルス地裁で開かれ、懲役2年の判決が言い渡された。

故殺罪は計画性のない殺人などに適用される。オークランド市内では、「刑が軽すぎる」と抗議する人々が警官隊と衝突。AP通信によると約150人が身柄を拘束された。
(2010年11月6日19時45分 読売新聞)