I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

隅田川の橋とわたし


東京スカイツリー350m展望台から隅田川を眺望
上流から橋に焦点を当て観察


隅田川は古典落語で、「大川」としてよく聞きますな。
交通の要としてたくさんの舟が行き来していた。



白鬚橋
右岸の白鬚公園と防災団地(火の手を遮る壁)
左岸の汐入公園(ヘリ臨時発着場あり)
画面奥の横に流れる川は荒川





桜橋
川向こうは、台東リバーサイドスポーツセンター、さらにいわゆる山谷地区、かつて日雇労働者が風を切って歩き、今は生活保護の高齢者、外国人バックパッカーが泊まる


江戸時代の遊郭、吉原があったのも此の地。「柳田格之進」「紺屋高尾」など落語のネタは山ほど。


なお、現在、隅田川花火大会の打上げ場所は、桜橋と、下流の駒形橋の2カ所となっている。





右から言問橋
東武線陸橋
アサヒビールタワーに隠れて吾妻橋(←外部サイト・当時の浮世絵図)
中央に浅草寺五重塔
両岸は隅田公園、テラス
東京スカイツリーと浅草は隅田川をはさんで徒歩10分程度


現在は赤い吾妻橋は、江戸時代に身投げの名所として古典落語「星野屋」「文七元結」などに登場。


写真手前は向島。浅草の川向こうだから向島。八代将軍、吉宗が隅田川の氾濫を防ぐ護岸の為に桜の木を浅草、向島の両岸に植え、隅田川畔は上野についで桜の名所になった。


現在、浅草から言問橋を渡って墨田区向島まで歩くと、料亭街があって芸妓さんが歩いているっていう花街。
そこから東京スカイツリーまで歩くもよし、隅田川七福神巡り(寺社巡り)をするもよし、下町は軒先にお花が沢山、猫も


思うに、江戸から昭和の向島は、今で言う六本木のような感じで時代のクリエイターが集まっていた。
1804年に開園した百花園は、国宝「日本画」の酒井抱一など当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭が残されている。
隅田川七福神も当時の文化人が誰となく発案したアイデアが由来となっているそうだ。


風立ちぬ」の小説家、堀辰雄の旧居跡など明治の文豪たちの記憶を辿るもよし。その他、森鴎外永井荷風幸田露伴らの足跡が向島に残されている。
行かねば。





言問橋の名は、伊勢物語在原業平が隅田川で歌う「名にし負わばいざ言問わん 都鳥吾が思う人はありやなしや」に由来。
墨田区には言問通り(画面手前交差点右手の道)や業平橋の名称が残る。命名に千年の歴史有り。
しかし、業平橋駅がスカイツリー駅に改名されましたな。


牛嶋神社の牛のご神体を撫でると、自分の悪いところを、治したい所を撫でるという撫で地蔵と同じ様な風習であるが、牛嶋神社の撫牛は心にもご利益があるとの事。


ちなみに、画面の川向こうは台東区で、リバーサイドスポーツセンターが見えるが、9月開催のスポーツ祭東京(東京国体)のフェンシング会場。大会観戦のついでに、浅草もスカイツリーも行っちゃった東京人は向島あたりを。
長命寺桜餅や言問団子などグルメもあり、嵐の二宮君が行った喫茶店「カド」はパンが美味しい。





駒形橋 小さく屋形船
遠くに都庁、新宿副都心
2時の方向に白く東京ドーム


古典落語船徳」で徳さーん、大丈夫かー?と声を掛けられるのはこの辺りか?





右手から- 蔵前橋 - NTT蔵前専用橋 - 総武線隅田川橋梁
緑屋根は両国国技館、11時の方向に東京タワー


写真にはないが、両国橋は古典落語「たがや」の舞台となっている。花火大会の一幕。
江戸時代には、隅田川の川開きと花火大会が5月28日と決まっていた。
太陰暦(月暦)のため15日は満月、月末月初は欠けて見えない周期。だから、28日は月が大きく欠けていて夜の闇が深く、花火がよけいキレイに見えたというわけ。


また、「黄金餅」は主人公が上野から愛宕山(現在の東京タワー近く)や現在の六本木のあたりまで練り歩く。写真に映るエリアを歩き尽くすとは健脚。





手前から-清洲橋 - 隅田川大橋 - 永代橋 - 中央大橋 - 佃大橋
もう東京湾近く、ビル群は月島〜豊洲


かつて佃島へ渡し船があり、古典落語「佃祭」に登場。大好きな噺。



■memo 隅田川 橋マップをみつけた。


map

https://t.co/QL4zXSUA8m

水上バス

http://t.co/jXqzN0AcPI

http://t.co/UOInYI7zhG



東京ゲートブリッジ
デジカメの能力の限界。うっすら画面中央を横に伸びる橋梁の直線的なフォルムが美しい。





荒川

東京湾に注ぐ荒川(荒川放水路 全長22km 幅500m)は百年前の”人工河川”
治水のため造成した。


スカイツリーの高みが上に向かう金字塔なら、横に伸びる荒川の掘削も相当なものだ。


■memo 荒川放水路 治水の歴史

特に明治43年の大洪水は、荒川筋の熊谷堤、綾瀬川下流の右岸堤は、荒川の増水により決壊しました。下流の日本堤はかろうじて決壊を免れたものの、左岸の隅田堤は決壊し隅田川がはん濫。これにより浅草など東京の下町はほとんど浸水して泥海と化し、死者324人、家屋の全半壊・流失1679戸、浸水家屋8万4538戸と水害史上まれに見る大水害となりました。


明治44年から荒川放水路事業が始まり、それまでの工事は、ほとんどが人や馬を使って行っていましたが、この大規模な工事では、当時最新式の蒸気機関で動く最新鋭の掘削機や竣洩機などを使った工法が採用されました。
岩淵に水門を造り中川河口まで全長22㎞、幅500mの放水路を建設し、20年の歳月をかけた大工事でした。


荒川下流河川事務所ホームページより抜粋
http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/learn/history/history04.html


隅田川と落語の関係(外部サイト)
【069】噺の隅田川の橋(鈴木和雄): 大和田落語会「会員の広場」