I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

三四郎

夏目漱石『三四郎』の感想文。*1


私の印象に残ったのは女性。
夏目漱石が描く女性は活き活きしている。

「御這入りなさい」
女は三四郎を待設けた様に云う。その調子には初対面の女には見出す事の出来ない、安らかな音色があった。純粋の子供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、こうは出られない。馴々しいのとは違う。初めから旧い相識なのである。

妹は然らざる旨を説明している。序に三四郎の様なシャツを買ったら好かろうと助言している。それから、この間のヴァイオリンは和製で音が悪くって不可ない。買うのをこれまで延期したのだから、もう少し良いのと買い易えてくれと頼んでいる。せめて美禰子さん位のなら我慢すると云っている。その外似たり寄ったりの駄々をしきりに捏ねている。・・・よし子は愚な事ばかり述べる。かつ少しも遠慮をしない。それが馬鹿とも思えなければ、我儘とも受取れない。兄との応対を傍にいて聞いていると、広い日当たりの良い畠へ出た様な心持がする。

大きな黒い瞳が、枕に着いた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、よし子の蒼白い額を見上げた。始めてこの女に病院で逢った昔を思い出した。今でも物憂げに見える。同時に快活である。頼りになるべきすべての慰藉を三四郎の枕の上にもたらして来た。


ただし、上記引用は三四郎が惚れた美禰子(みねこ)ではなくて、同郷の学者である野々宮さんの妹、よし子の描写である。
美禰子はどちらかといえば「お姉」「ツンデレ」キャラで、よし子は「妹」「萌え」キャラだ。


私は、上の3つが印象に残った。たぶん、よし子派。
特に、2つめの引用では、私自身にも妹がいるのに、”妹が欲しいなあ”と思ってしまった位である。
また、3つめの引用では「物憂げに見える。同時に快活である。」かなり私のツボにはまっている。


作中のある登場人物は、美禰子とよし子について、こう評している。

「あの女は落ち付いていて、乱暴だ・・・心が乱暴だ。尤も乱暴と云っても、普通の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹の方が、一寸見ると乱暴の様で、やっぱり女らしい。妙なものだね」

あの女=美禰子、野々宮の妹=よし子を指す。


美禰子は、「自分」を持っており、美しく勝気のようで案外シャイでやさしい、捕らえどころのなく思わせぶりな人物である。
結局、美禰子は三四郎ではなく別の誰かに嫁いでしまうが、これは三四郎の失恋かというとそうでもないように思う。
美禰子は身を引いたのだと私は考える。


私なりに行間を読んで推理するとこうなる。

  • ・美禰子は運動会見学時に、よし子が三四郎を好いていることを知る。
  • ・美禰子は、よし子に見合い話が来た時に断りきれそうにないよし子に代わって、見合いを引き受ける(よし子が見合いを断った相手と美禰子は結婚した)。


なんで美禰子はそんなことをしたのか?
漱石は美禰子について、「無意識の偽善者」という言い方をしたそうである。

そして、漱石は続く『それから』『門』などの作品で「無意識の偽善者」を追及していく。


一方で漱石は、このような複雑な精神構造とその行為の結末を知ることのない、いわば、「無垢」な人物を小説に登場させ、その無垢を護る。

以下の2つは、本作品と『こころ』からの引用である。無垢は慰謝であり罪である。

「美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか・・・誰ですか、先は」
「私を貰うと云った方なの。ほほほ可笑いでしょう。美禰子さんの御兄さんの御友達よ。」(『三四郎』より、よし子)

「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好い御友達が一人あったのよ。その方が丁度卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです。・・・けれどもその事があってから後なんです。先生の性質が段々変わって来たのは。何故その方が死んだのか、私には解らないの。」(『こころ』より、奥さん・お嬢さん)


最後に、
三四郎が傍聴した「文芸家の会」では、このような会話がなされた。
人間の心は謎に満ちている。

「さよう、イブセンの劇は野々宮君と同じ位な装置があるが、その装置の下に働く人物は、光線の様に自然の法則に従っているか疑わしい」
「人間も光線も同じように器械的の法則に従って活動すると思うものだから、時々飛んだ間違いが出来る。怒らせようと思って装置をすると、笑ったり、笑わせようと目論んで掛ると、怒ったり、まるで反対だ。」
「じゃ、ある状況の下に、ある人間が、どんな所作をしても自然だと云うことになりますね」


三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

*1:ていうかこの一週間に夏目漱石を4冊読んだ! 漱石は女性の「瞳」と「眉」フェチ?作品を通して描写が多かった。