I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

kirakira


断っておくが、私は今春終了したTBSラジオ番組キラ☆キラのヘビーリスナーだったし、投稿メッセージが番組で読まれて有頂天になったキラ☆キラ愛のリスナーである。


だから、以下は誰かにぶつけたい意見ではなく、少し考えてみたいのである。


小島慶子さんは、降板理由を述べるなかで以下の発言をした。

ラジオの中で人が生きる場所は豊かだと思う。分類もできないよ。若者と年寄どっち向きに分けるんだって分類してもしょうがないよ。同じものが面白いと思えれば、相手がだれだっていいんだもん。そういうものが声を通じてたくさんの人と分かち合えるのはラジオならではの良さだと思います。


だから、「特定の年代に向けてしゃべることを局から要請され、それを断った」としている。


私は少し混乱した。本末転倒のような気がした。
また、その日の番組パートナーであったピエール滝氏も、共感を示すことがなかった。


聴衆を分類しないことと、広く受容することとは違う。
自分の言葉を聞きたい人は聞けばいい、聞きたくない人は聞かなくていい。これも分類の一種であると気付かないのだろうか。
局が求める特定層も取り込むように話す、そうした結果、幅広い人が聞いてくれる放送になる。これが本当の順番だと私は考える。


広場に例えれば、誰でもが来られるからこそ、多様なニーズがあり、むしろ利用者を分類して、それぞれが使いやすい設備を備える受入態勢が必要だ。
これによって小島さんのスタイルが損なわれるという言い分は、例えば広場にバリアフリー設備を設けるのはデザイン的に不都合だからやりたくないと言うのと同じだ。


また、放送局には、公共の電波であると同時に、スポンサー収入で成り立つため、公平中立であるべきだが、スポンサーの意向に内容が左右されかねないジレンマがある。


だから、パーソナリティは、多様なニーズやスポンサーに折り合いをつけるハンデを負いながらも、多くを魅了する放送を実証する度量や力量が問われると私は考える。


キラ☆キラが、実際に幅広いリスナーに支持され、小島さんが言うような広場だったのか、もしくは特定層が群がる掲示板だったのか、それはデータを見られないから分からない。


現在、小島さんは会員制・会費制のポッドキャストで番組を発信している。
この状況で、冒頭の発言をするなら違和感がない。
筋の通った身の振り方で清々しい。


小島さんは、局アナからフリーになり、公共放送からポッドキャストへと、次々と自由の利くやり方に身を処して行く。
小島さんの活動が書籍やTVに広がったのが、ラジオのリスナー層が購買者や視聴者として計算できたからだとしたなら、番組降板によって、小島さんの発信力が弱まると懸念した。


しかし、キラ☆キラで、火曜日パートナーの堀井憲一郎氏が述べたように、小島さんの魅力は、その人なりの正義を臆面もなく主張する真っ直ぐな姿勢にあると私も思う。
小島さんなりの正論をコメントするときに、少し声が震えるのがラジオを通じて伝わってくるから、番組を聴かずにはいられなかった。


おそらく、小島さんに仕事が依頼が後を絶たないのは、数字を期待してのものではなく、小島さんの熱量に期待してのものだろう。
小島さんが持つ”困っている人を放っておけない目配り”もライフワークになるだろう。


キラ☆キラ最終回に、町山智浩氏が言ったことが言い得て妙だ。
「番組を学校に例えるなら、小島さんが自主退学したら、学校が閉校してしまった。そんな生徒は困るよね〜」と。
降板の真相は分からない。もしかしたら大きく迷惑した人達もいたかもしれない。
学校だったら本当に困る生徒が、リアルな社会に存在している。
面白い。


私は、小島慶子さんの美学を支持する。