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根暗なマイハートのネジを巻け!

体育と鍛錬

ベネディクト『菊と刀 (光文社古典新訳文庫)』によれば、日本人の鍛錬は、目的を問わない。


60時間歩き続ける、滝に打たれる、長く正座するなどが、受験、演説、出世、華族としての振舞…何か事を起こすとき十中八九は圧倒的に有利となると信ずる。


修養によって、日本人は光輝く切れ味するどい刀となる。潜在力は自己の内部にしかない。強くなるためには自分自身で努力するほかない。


鍛錬の達人が到達する心境は「無我」。意志と行動との間に「ずれがない」経験を指す。「観察する自己」「干渉する自己」が除かれ、思いをそのまま再現できる。

これが伝統的な日本人の考え方だとして、現代の体育はどうなっているのか?
そんな観点から体育教育を紐解いてみた。


まず、文部科学省の審議会答申から引用。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05091401/003.htm


体育の目的の具体的内容(すべての子どもたちが身に付けるべきもの)を考えると,体育の授業を通じて,すべての子どもたちに,以下のように,一定(ミニマム)の「身体能力」,「態度」,「知識,思考・判断」などを身に付けさせることが必要である。


「身体能力」に過度の重点を置くことは,逆に子どもたちの体育嫌いやスポーツ嫌いを助長することにつながりかねないことから,避けなければならない。しかし,一方で,長期的に子どもの体力の低下傾向が続く中で,教科・科目の「体育」は,直接「身体能力」を養うことのできる唯一の教科・科目であるという性格にもかんがみ,「身体能力」についてもその内容を明らかにすることが重要である。


(身体能力とは)

  • 全力で加速した後,数十メートルは最高スピードを維持して走ることができること
  • 全身を使って、その場で高く、あるいは遠くへ跳ぶことができること
  • 一定のペースで数分間以上走り続けることができること
  • 自分の体重と同じ程度のものを,一定時間以上支えたり,運んだりすることができること
  • 膝を伸ばしたまま上体を一定の深さまで曲げること
  • 水の中で,浮いたり,潜ったり,進んだり,息継ぎをすることができ,二つ以上の泳ぎ方で一定の距離を泳ぐことができること
  • 身体を,柔らかく動かしたり,力強く動かしたり,リズムを取って動かすことができること
  • マットや鉄棒で,体を支えたり,回ったりすることができること
  • 大きさの異なるボールを,手や体や足を使って,捕る,投げる,打つ,けるなど様々に操作することができること
  • 運動やスポーツの用具をうまく操作することができること


身に付けるべき具体的な「目的」のミニマムとしての「数値」を設定するには至らなかった。数値の設定が可能であるかどうかも含めて,各要素がどの程度身に付いていればよいのかという,具体的なレベルについては,今後,専門的見地から検討を継続することが必要である。




(態度とは)
運動やスポーツを「する」ことや「見る」「支える」ことへの関心があること

  • 「チャレンジすること」の価値に対する態度
  • 生涯にわたって運動やスポーツに取り組もうとする意志があること
  • 「フェアプレー」に関する態度。結果にかかわらず相手を認めるなど,共に運動やスポーツを行う仲間を尊重し合おうとする意志があること
  • 「協力・責任」に関する態度


(知識,思考・判断とは)

  • 人間はなぜ運動するのかといったことなどに関する知識(発育発達,意義,体力の考え方など)
  • 運動やスポーツについての考え方や発展の歴史に関する知識
  • 運動が「身体と心に与える影響」に関する知識
  • オリンピックムーヴメント注釈に関する知識
  • ルールや用具の使い方に関する知識


上記引用からは、身体能力などベンチマークの設定検討や、態度といった精神性が柱とされている点が日本らしいと思う。
決められた到達点を全体主義的に達成しようとする。態度すなわち心と体を一体とみなし評価しようとする。




次に、高校の学習指導要領を見ていく。
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/19/1282000_7.pdf


心身の両面に影響を与える文化とし てのスポーツは,明るく豊かで活力に満ちた社会の形成や個々人の心身の健全な発達に必要不可欠。


運動の実践は,技能の獲得とともに,ルールやマナーを大切にしようとする,自己の責任を果 たそうとする,チームの合意形成に貢献しようとするなどの公正,協力,責任,参画などに対する態度の育成にも資するものである。集団でのゲームなど運動することを通して,粘り強くやり 遂げる,ルールを守る,集団に参加し協力する,といった態度が養われる。
言い換えれば、フェアなプレイを大切にしようとすること,役割を積極的に引き受け自己の責任を果たそうとすること,合意形成に貢献しようとすること。




中学の学習指導要領から。
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/21/1234912_009.pdf


生活習慣 の乱れやストレス及び不安感が高まったりしている現状があるといった指摘を踏まえ,引き続き,心と体をより一体としてとらえ,健全な発達を促すことが 求められることから,体育と保健を一層関連させて指導することが重要。


技能の習得などを通して礼法を身に付けるなど人間としての望ましい自己形成を重視するといった考え方があることを理解できるようにする。


我が国固有の文化である武道を学習することは,これからの国際社会で生きていく上で有意義であることを理解できるようにする。




上記の引用からは、「心身」「心と体の一体」「態度」それが「礼」「人間としての望ましい自己形成」へと昇華していく。
こうなってくると、冒頭の『菊と刀』の発想に近づいてくると思った。




では、諸外国ではどうなのか。少し古いが詳細がまとまっている以下の文献を読んでみた。


体育のカリキュラムの 改善に関する研究 -諸外国の動向-
平成15(2003)年3月(国立教育政策研究所
http://www.nier.go.jp/kiso/kyouka/PDF/report_14.pdf




(アメリカ)
1980年代から、児童生徒の運動不足・肥満によって頻発す る生活習慣病の予防効果や、学校荒廃で荒れた規律を体育の学習を通して再度確立するこ とが期待されてのことであった。
この動きを推進したのは、「健康・体育・レクリエーション・ダンス連合」であった点が、なんとなく鍛錬をイメージさせる日本とは違う感じがする。レクリエーションとかダンスとか。まあ、日本もダンスを取入れたけど。


特に注目した評価基準としては、

  • 身体活動の場で、責任ある個人的・社会的行動がとれる。 (社会性の育成等の社会的行動目標に関する内容基準)
  • 身体活動の場で、人々の違いに理解と配慮を示す。 (多文化<民族>や人々の多様性<性・障害>の学習に関する内容基準)
  • 身体活動が喜び、挑戦、自己表現、社会的相互作用の機会を与えることを理解する。
  • 正確に評価されたフィットネスのプロフィールを基に、個人 の健康フィットネスプログラムを計画する。
  • 割り当てられた課題を仕上げるために時間を効果的に使う。
  • 問題を解決し、重要さと解決策を分析することで選択をする。
  • 衝突を平和的に解決する適切な技能を適用する。
  • 勝つことの目標と他に掲げられた参加の目標とのバランスを保つ。

特筆すべきは、まず評価基準が明確に書かれていること。それが個々の成長やプロセス、多様性の理解にまで及んでいること。
さらには、「衝突の平和的解決」や「勝つことの目標と他に掲げられた参加の目標とのバランスを保つ」などスポーツの勝ち負けが付くという競技性をうまく活用している点。
日本のように、負け=失敗という短絡思考に陥り、徒競走などで順位を付けないという発想とは違うなあと思った。
ただし、日本の学習指導要領にもこのような評価基準があるのかもしれない。全部調べ尽くした訳ではないから。でも、あれば嬉しい。


ねらいとして、生涯にわたるスポーツライフの基礎作り、運動やスポーツ学習をとおしての社会的スキルの定着が意図されている。
特に、社会的スキルの定着という点は、日本でいう鍛錬を積めば人生も十中八九上手く行くという発想に近いなあと思った。
しかし、日本のように、精神を鍛え、我慢して同調するといった類の鍛錬ではなく、上記評価基準のように、個々がそれぞれの具体的目標にかなった取組を一つひとつクリアしてステップアップしていくものと思われる。


その他、日本との対比で大きな特色は、教科内容の 編成基準が「運動種目」ではなく、「体育目標」から導かれた、前述の評価基準によって編成されていることだと記載されている。
つまり、体育は「手段」であり、その先の「目標」が評価基準として意識付けられているかどうか、大きな差がある。


実際、私が勘違いしていたのは、早くドリブルできるかどうか、試合に勝てるかどうかといった身体能力に関する評価ばかりが気になって、役割を買って出る主体性や、紛争を解決したりすることで通信簿が良くなる可能性なんて考えてもみなかった。
だから、サッカーでも自分は苦手なので、後ろの方でちょろちょろしていたり、バレーボールでもなるべくボールにさわらないようにしていたり、ダメじゃんって感じだったなあ。
でも、柔道は上手く立ち回れたと思う。当時は、総当たりで試合をして、けっこう上位に食い込んだ。
学校帰りに、柔道の教則本を本屋で立ち読みしたりし、腹筋したりと自主練?に励んだものだ。


だから、米国式の評価基準はごもっともなんだけど、インセンティブは試合に勝ちたい。それが大きい。
米国式の評価は、実際どうやって採点するのだろうか。個々が目標シートを書いて、到達点やプロセスを評価するといった、書類が必要になるし、先生は競技技術だけでなく、チームワークやリーダーシップなど色々見なくてはならなくて大変そうだ。


私が高校のときの体育教師は、授業中には何処かに消え失せていて、生徒は試合に夢中。運動神経の良い奴の天下って感じだった。
もしかすると、先生は人知れず目を光らせていたのかもしれないけど。




その他、イギリスやフランスの事例も紹介されているが、大筋はアメリカと同じ印象。


日本と同じアジアでは、中国がベンチマーク方式を採用している。
高飛び1m以上など、達成目標を細かく設定している。


シンガポールは、高級中学校の球技の内容には、「試合と鑑賞」が組み込まれている。具体的には、優れたパフォーマンスに対する説明を加えることがあげられている。
なんか、優雅な感じだ。


アジアとしては、ベンチマーク方式や、鑑賞といった切り口が日本に似ている。
日本武道の「礼」も要するに、人に見られて恥ずかしくない様だとしたら、反対概念として、見る側、鑑賞者としてのスキルも当然に求められると思うから。




まとめ。


作家・政治家の石原慎太郎氏が、「スポーツで体幹を鍛えるべき」と言ってたのを思い出す。
強いて結論づけるなら、人間の幹を鍛える発想の日本と、社会的スキルという枝葉を茂らせようとする欧米。