I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

偶然

『存在の耐えられない軽さ(ミラン・クンデラ著)』関係の話を続ける。


  偶然について


トマーシュとテレザの出会いは重いのか軽かったのか。


(トマーシュの視点)

  1. テレザの町の病院にたまたま脳の病気の難しいケースが見つかった
  2. 外科部長がたまたま病気でトマーシュが代役に選ばれた
  3. トマーシュはたまたまテレザが働くホテルに泊まった
  4. トマーシュはたまたま汽車の出るまで暇ができレストランに出かけた
  5. テレザはたままた勤務時間中だった
  6. テレザはたまたまトマーシュが座ったテーブルの係だった


(テレザの視点)

  1. トマーシュがレストランでテレザを呼び止めたときテーブルに本が置いてあった。テレザにとって本は現実逃避とエレガントのアイテムだった。
  2. テレザがトマーシュにコニャックを持っていくときにベートーベンの曲がかかった。テレザにとってベートーベンは「より高度なもの」を意味した。
  3. トマーシュの部屋番号が「6」で、テレザの家の番号と終業時間が「6」だった。
  4. テレザが仕事終わりに店を出ると、トマーシュが昨日テレザが座っていた黄色い椅子に座って腰掛けていた。


トマーシュにとってテレザとの出会いは「偶然」=「他に変わりがありえたもの」であり、彼はその「軽さ」に絶望した。
テレザにとってトマーシュとの出会いは「偶然」=「人生の決定的な日のサイン」であり、彼女はその「重さ」に恋が突き動かされた。


さて、トマーシュとテレザの「偶然」をみて、私はどう考えるか。
トマーシュの考える「偶然」は「くじ運」で、テレザの考える「偶然」は「運命」である。


しかし、どちらの考え方をとっても結論は一緒である。
偶然は自ら「見い出す」ものだ。


つまり、「くじ運」であれ、「運命」であれ、日常の繰り返しのなかから、自分にとって意味のあるサインを見つけたとしたら、それは自分が選んだのだ。
自分で見つけようと常に注意していなければ逃げてしまうものだ。


上記トマーシュの視点で、テレザの町に行ったのが「たまたま」だったとしても、トマーシュはテレザ以外の多くの女性に出会っているはずであり、それらはまったく考慮に入らずテレザを意識したのは、くじ引きでテレザを引いたのとは違う。

また、上記テレザの視点で、「トマーシュ」を「町の肉屋のおやじ」に置き換えたとき、テレザにとっては意味の無い繰り返しの一部にすぎなかったかもしれない。「トマーシュ」だったからこそテレザは「運命」と認識した。


さらに、偶然が受身ではなく、自分が見い出し選択した結果であればこそ、一回きりの人生において人はその選択の是非を振り返えり苦悩するのである。


なお、「縁」という言葉がある。これは人生の選択を後付けで肯定しようとするために昔の人が考え出したマジックワードだといえよう。




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