I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

破戒2


島崎藤村の『破戒』を読む。

読後を待たずに感想文を書く。

主人公と一緒に自分の心の動きをつづるのだ。

ていう。


続き。


風間さんと主人公が酒をのみ、風間さんの半生をこんこんと聞かされる。
主人公が下宿するお寺に娘がお世話になっていて、それには深い理由がある。
このくだり、必要か?と思ったけれど、この娘がキーパーソンなのかなあなんて思ってます。


場面は学校に変わる。
正義漢が強く、こびない主人公を校長はうとましく思っていて、何か理由を付けて追い出せないだろうかと企んでいる。
主人公、危うし。


そんなか、故郷から父の訃報が届く。
父の最後の教えが重くなる。


「身分を隠せ」


一方、主人公が慕う思想家の先生がいて、父の葬式に向かう途中で偶然出会う。
その先生は、被差別の出自であり、それを公にしていた。


主人公は、その思想家を慕うあまり、自分も同じ出自であるという事実を、その思想家にだけは、告白したいと思う。
それは、父の戒めに反することなので、それをひどく迷う。
一緒に風呂に入り、酒を飲んでも切り出すことができない。


という場面まで読み進めた。


感想として、カミングアウトが人間を苦しめるというのは、よく分かる。
差別とは違うが、自分の身内に犯罪歴のある者がいるとか、母が統合失調症であるとか、そういうことを交際相手に告げる際に、けっこう迷った経験がある。


要するに相手しだいで、それで離れていく人も離れないでいてくれる人もそれぞれあるので、カミングアウト自体に本質的な何かを包含されているとしたら、人間は、自分で自分を発想の檻に閉じ込めてしまう生き物であるということだろうか。


例えば、うつ病歴を就職の面接で言うべきかどうかという悩みを抱える知人がいる。家族にすら隠している者もいる。


何であれ、相手に理解を得られないだろうと思い込んでしまい、自らを縛ってしまうということを人間はする。
しかし、そう思っていること自体に差別が内包されていることを自覚する必要がある。
誰かに差別される前に、自ら差別してしまっているのだ。
差別スパイラルに陥ってはいけない。


たまたま読んだ人権の冊子に、「福島の放射能の影響で、子どもの身体に影響が生じ、障害者となったら困る」という発想は、障害者を悪いもの、可哀想という前提があり、差別だと書いてあった。


それはさておき、カミングアウトにおいては、まず自分にすべてを告白し、自分に向き合うことが肝要である。


本書を、差別という社会的な切り口に加え、カミングアウトという主人公の葛藤と自問自答の物語という視点で読み進めよう。


続く。