I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

破戒7


島崎藤村の『破戒』を読む。
読後を待たずに感想文を書く。
主人公と一緒に自分の心の動きをつづるのだ。


続き。


解説を読んだ。


島崎藤村は、その人自体に複雑な素性を抱えており、「親ゆづりの憂鬱」という言葉を、しばしば語ったそうである。


本小説は、プロレタリア文学として社会問題を扱った小説であると同時に、個人的な内面に焦点を当てた小説という二面性を持つということである。
この点については、私はこれまでの感想のなかで、現在に通じる既得権や格差問題に触れ、同時に個人主義の芽生えとして主人公の葛藤をとらえていたつもりである。


また、現実と自我の格闘という切り口についても、解説を待つまでもなく、私は尾崎豊の『僕が僕であるために』との類似性を提起したものである。


若干自信のなかったのは、主人公が告白したときに情けないほどに謝罪した点である。
私はそれを当時の差別感情が一定のルールとして根強い、要するに厳しい現実からきた行動かなと思っていたのだが、『破戒』のそこが欠点だとする議論があるようだ。


本書が社会的な書であるならば、差別はいけないと主人公に言わせなくてはならなかったのに、それをしなかったのは、主人公の宿命的な暗さであり、作者の運命感の表れであると解説は書いている。
しかし、それに私はこう反論してみたい。主人公を追い込み、卑屈なまでに何度も謝罪の言葉を述べさせた島崎藤村の筆から、逆に差別の恐ろしさを読み取ることができ、それが島崎藤村の社会的な問題提起だといえないだろうかと。


ただし、私自身の感想でも欠落してしまったのは、昨日感想としてラストのその先を予想したときに、「主人公は将来日本の教育に貢献するだろう」とまでは書いたけれど、「差別や格差(貧困等)をなくし平等な社会をつくるだろう」とまで書かなかったことである。
そこまで思い至らなかったのは、主人公の葛藤に目が行っていて、心のどこかで差別はなくならないと思った、私の運命感の表れなのである。


なお、本書の解説には差別問題に関する解説も掲載されている。
本書は当時、差別的な小説として批判され、差別的表現を書き直した改訂版が出版されたとのことである。
しかし、僧侶や教育界に対する風刺の記述も含めて書き直され、差別問題自体が存在しないかのような書きぶりになったのに加え、冒頭に「差別は昔の話である」的な作者の注意書きまで加えられ、結局批判を受けたこともあり、改訂版はその改変自体が差別的作業であったという歴史的分析はされても、小説としては現在評価されていないとのこと。
現在は、初版本が正当に評価され、そこには差別的な表現がたくさん書いてあるのだが、差別問題に関する解説を併行して読む事で、社会の問題を知る事ができるのだということ。


差別とは、足を踏んでいる人が、足を踏まれている人の痛みに気づかないように、無自覚なことが問題である。


偏見というものを改めて考えてみると、

この小説に出てくる勝野といいう人間は、主人公に偏見を持ち、差別をする人である。
この小説に出てくる校長は、主人公に偏見を持たないが、差別はする人である。
この小説に出てくる生徒やお志保は、主人公に偏見も差別もしない人である。


気になっていたのは、差別をしないが偏見を持つ人物が出てこないことである。
現実社会にはこのタイプが多いのではないか。
性別や年齢や学歴や地位などで態度を変えるタイプのことである。


しかし、本書の解説を最後まで読んで見つけたのである。
差別はしないが偏見を持つ者を。
それは島崎藤村その人であると。
理由は、猪子蓮太郎にこう言わせている。
「いくら吾々が無知な卑しいものだからと言って、踏みつけられるにも程がある」
社会の改革を目指す彼が自分達のことを卑下する発言をするわけないのである。それは島崎藤村の偏見だと私は思う。
彼はまた差別を受ける者たちに「開花した方」「開花しない方」の二通りがあるとも言っていたらしい。
これも偏見の一種だと思う。


差別反対の小説のなかに差別意識がにじみ出てしまうといった失敗が差別問題の根深さと、さらには人間が自分の知識や経験などの枠から自由になることの難しさ、たとえ現実と自我の格闘に勝てたと思ってもその「自我」自体が自由でも何でもない存在だっていう。
それでも考える事は楽しい、人間だもの、と強がってみる。


余裕があれば、アマゾンのレビューを読んで思うところがあれば、感想を継ぎ足そう。