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蒲団


田山花袋『蒲団』の感想文。


蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)

蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)



私のとあるコンプレックスは、この小説から始まっている。


あれは中学時代、受験勉強のため初めて県庁所在地にある進学塾まで電車で通うことになった。


国語の時間、先生がウオーミングアップ的な感じで、ある生徒に出題した。

『蒲団』の作者は誰だ〜?


その生徒が黙っていると、先生がヒントを出した。
「ヒント、やわらかい。笑」


そのヒントでまったくピントこない私。
クラスはどっかーんと大爆笑。


そう、答えは「田山花袋(かたい)」だったのだ。


その一連のやり取りに対し、傍観者となった私は、それまで授業で置いていかれた経験のなかっただけに、ショックを受けた。


県庁所在地といっても田舎の一つなのだが、そのときは、さすが街の中学生は進んでいる、上には上がいると度肝を抜かれたものだった。


それからというもの、自分の能力は一枚落ちるという呪縛が、志望校に合格した後も残った。


ということもあり、手をつけられずにいた『蒲団』であったが、先日買った携帯端末で小説が読めるということで、手頃な長さの『蒲団』にチャレンジした。


内容がぶっちゃけた感じで、かの印象的なラストシーンを含めて、ある意味、試験問題でこの小説をありがたく扱うのって、「裸の王様」なんじゃない?的に昔のトラウマもひきずった読み方をしてみたが、どうにも説得力がある。


おそらく、小説家を志す者は一度この小説を読んだほうがよい、この小説の二番煎じを量産してもしかたないと悟るのがよい。


自然主義文学というジャンルらしいが、島崎藤村の『破戒』もそうだが、内心を率直に暴露するタイプの小説形式として、『蒲団』は日本の小説の中の白眉だと言える。


内容は、「自己愛」に対する人間の己に対する欺瞞や渇きであり、内心の暴露である。
愛されたいと渇望した太宰治人間失格』のようなストレートでストイックでピュアな感情とは反対の、迷い、情けなく、人間らしいやり方で描かれたのが『蒲団』だと吟味すべきである。


要するに、中心的に扱われる女性に対して、その父親と小説家と彼氏の三つがそれぞれのやり方でその女性を奪い合い、それぞれの主張がしょせん自分勝手であることに無自覚な様が描かれているのである。
ただし、その自分勝手に思い当たらない人はいない、誰もが自分の弱さに思い当たるのがこの小説が普遍的な価値を持つ理由だと考える。


クエスチョンマークが48個出てくる。まったくカタいんだかヤワラかいんだかw

  • 「私共とは何だ!何故私とは書かぬ、何故複数を用いた?」
  • 「神聖なる恋とは何事?汚れたる行為の無いのを弁明するとは何事?」
  • 「妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂寞(せきばく)たらざるを得るか」


恋愛面の構図を書くと、小説家は妻子持ちである点でその女性を奪う資格がない、彼氏は無職で将来設計が不確かな点でその女性を奪う資格がないっていう状況。
やや本質はずれを恐れずに書くと、私の偏見かもしれないが、誰もが応援するような恋愛というのは、配偶者のない者同士が将来性もセットで和合することだと、この小説のストーリーの反対として浮かび上がってくる。
しかし今回改めて考えると、それって割とゾーンが狭いんじゃないかなあと感じる。
結婚はお互いの束縛なのか、雇用が不安定だと結婚できないのか、現代的な感覚もその意味では保守的であるように思うが、じっさいそのゾーンに収まらない関係は多いはずで、その多くが窮屈な思いをしているのかなあと余計なお世話。


ところで、主人公の行動が笑えるという感想が多いのかなと思い「蒲団 ウケる」で検索してみたが、多少その向きの感想はあったが、特筆すべき結果は出なかった。
一方で、同意しているのかと「蒲団 同意」で調べたがこれも、多少その向きの感想はあったかなという程度。
「蒲団 納得」で検索すると、もう布団のクリーニングが納得という別件になってしまったっていう。ネタみたいな話。あ、蒲団なだけにネタ。


まとめ、主人公が自ら述懐するように、冷静でありながら抗えない衝動に突き動かされる様にツッコミを入れるもよし、思わず田山花袋と「対話」するかのごとく読み進めるもよし、読んで何か自分の生活が変わるかと言われると具体的には浮かばない、分かった振りにすぎない意味では、私の方こそ「裸の王様」である。