I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

談春、芝浜、カラヤン、おしん


昨日、練馬文化センターにて、立川談春「芝浜」を聴いた。


主人公が大金を拾ったのを夢だと信じさせられる場面を丁寧に描いていた。その他、その妻を献身的な古典イメージから今風な自立心ある女性に描き(なんと店を構えると言い出す)、あげく最後に告白した理由で「夫が昔に戻っても、店があるから大丈夫だと思った。」と述べ、思わず私は仰け反った。


かれこれ75分の長演であった。


練馬文化センターは、師匠の立川談志の住まいが練馬区大泉にあったことから、ゆかりの深い会場ということで、立川談志特有の反復擬音を交えたり、「びっくりして座布団の上で小便漏らす」が含まれていたり、立川談志の生き写しのように感じられる瞬間もあった。


落語のサゲの後で、「立川談志は65歳過ぎても年齢を感じさせなかった。若い頃のように出来なくなる部分もあったが、65歳を過ぎてから出てくる新境地もあり、都度驚かせられた」と感想を述べた。


さらに、「75分を50分でやれたら上達なのかなあ」などと述べた。75分といえば、カラヤンが指揮するベートーベンの第九交響曲と同じ長さだ。芝浜も第九も年末の風物詩だ。
それはさておき、落語とクラシック音楽は、再現芸術という意味で共通する。
クラシック音楽では、楽譜にあるリピート記号を無視して反復省略したり、テンポを速めることにより演奏時間が短い指揮者もいるが、古典の演奏形態を重んじる指揮者は演奏時間が長くなる傾向もみられる。


例えば、文章は要点を短文で書く方が伝わりやすいが、文章のプロである小説家が紙面を多くして書き、削れないというのはそれなりの理由があるからだろう。
音楽も同じで、落語もそうなのだろう。


なるほど、話の枕で立川談春が、「先代の円楽師匠に言葉を省略したほうがいいと言われてそうしたら3倍ウケた」という話をしていた。
「甕(かめ)の水を持ってこい」→「水を持ってこい」
これは昨日、立川こはるが演じた「家見舞」の一場面で、贅沢にも談春が同じ場面を演じてみせてくれた。こういうサービスはうれしい。


そうか、最後に言った「50分でやれたら上達なのかなあ」と、枕で言った「セリフを削ったら3倍ウケた」が談春の内心の葛藤としてリンクしていた訳だ。立川談春恐るべし。


ちなみに、「おしん」総集編を録画視聴しているが、第二子「愛」を死産する場面で、おしん本人は「自分でへその緒を切った。赤子は生きてた。」と言い張り、死産を認めようとしない。周囲は、医者が死産だと言っていると説得する。さて、おしんは夢をみたのか、事実だったのか。最後には「赤子は生まれたとき泣かなかった。もうああんな(可哀想な)子は産みたくない。」とおしんは言った。
それを見て芝浜の一幕を思い出してしまった。


なんだかんだ、昨日の立川談春の高座は本当に夢みたいでした。