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根暗なマイハートのネジを巻け!

道徳形而上学原論


芥川龍之介は「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残し、自死した。
ドイツの哲学者カント(1724年 - 1804年)は、認知症になって死んだ。最後の言葉は、「これでよい」(Es ist gut.)


親鸞は、「善悪の二つ惣じて存知せぬ」とする。その時代の規範や、信心、知識などで論じて本当に正しいか自問。
ニーチェは、目標や未来があって、初めて善悪が定められるとする。
カントは、前提条件がなくても成立する善を追究し「我が行動原理が、普遍的法則に合致するを欲す」善意志に至る。



道徳形而上学原論 (岩波文庫)

道徳形而上学原論 (岩波文庫)



●「幸福の追求」という義務
カントは「自分自身の幸福を確保することは、義務である。夥しい心配事がひしめき合い、様々な欲望が満足されず不満を抱く状態は、義務に背かせようとするが、人間は、幸福を求めようとする極めて力強い、かつ切実な心的傾向を備えている」「しかし、傾向によるのでなく義務に基づいて幸福を促進せよ」


「義務に基づく行為の道徳的価値は、その行為を規定するところの格律(主観的な行動原則)にある。その動機や目的にあるのではない」
要するに、自分で決めて、実行すること(自律)に価値がある。誰かの指図や感情に従う(他律)には価値がない。


義務って他律ではないのか?と思ったら、カントはこう書いていた。
「義務とは、意志が普遍的法則によって規定されている認識のうえに為す行為の必然性」
現代風に言えば、意志と行為とが、人間でも宇宙人でも未来人でも、理性的存在者に通用する普遍的な法則に”同期”している状態。




●善意志と人格
善意志とは「私の格律が普遍的法則になるべきことを私もまた欲し得るように行動し、それ以外の行動を決してとるべきでない」このことの価値は「欲す」すなわち自律であること。さらには、「欲す自由がある」(=人格)という風に、人格権までが視野に入っている。


カントの時代的価値は、「善」について、神に「導かれる」というキリスト教思想から導くのではなく、また、ニーチェのように目標や未来から定めるのでもなく、そのような前提条件や人間の傾向、感情がなくても成り立つ「善意志」から導き、現代社会の多くが共通理解する「人格」を論じたことらしいゾ。




●道徳 - 普遍的必然性
まず、何かの目的を達成するための勇気や知恵や能力は、善と言わない。毒殺するという目的もありうるため。次に、人間が彼自身の最大の福祉を得るための手段を選択する熟練も違う。主観的、偶然的な条件で左右されるため。これらは「仮言的」と呼ぶ。


ある行為を直接に命令し、その行為によって達成され得るような何か別の意図を(行為)の条件として根底におかないような命法を「定言的命法」と呼ぶ。
無条件で普遍妥当的な必然性を持つ「定言的命法」を”道徳”と呼び、怜悧や熟練など、単に前提条件をクリアする”実用”や”技術”と区別される。


カントは、例示として、普遍的自然法則に”反する”4類型を挙げる。

  1. 自殺(内的完全義務)
  2. 偽りの約束(外的 〃 )
  3. 自己啓発の放棄(内的不完全義務)
  4. 困っている人を援助しない(外的 〃 )

注:1,2 法則の自己矛盾(皆死んだら?相手も嘘をついたら?成立しない)
3,4 法則に反しないがそれを欲しない




●道徳の価値は自明か
なお、カントは、そもそも人間が道徳的感情を持つのは何故かについては、結局分からないらしいのだ。具体的には、盗人が本当はそれが悪い事だと知っていることをどうやって説明するのか、長文費やして、人間は「感性界(現実)」と、「可想界(理性)」の2つに住んでいるとして論ずる。


人間が普遍的価値(道徳性)を重んじるのはなぜか。経験や感情などにまったく影響を受けない「理性」などあり得るのか、カントは何度も問う。この答えは、私が読む限りでは、「自分自身がそう意識しているから」「可想界について、我々はこれ以上を知らない」と書いてある。


また、普遍的妥当性は、必然的なものであり、主観や偶然性から導かれてはならない。理性がどうやってそれを知るか、カントは歯切れが悪いが、私はこう思う。人間には他人の感情を感受する能力があるからだ。


人間は共同生活をするため、「共感力」があり、それが他人の利益を自分の利益と思って行動する能力となり、ひいてはカントのいう普遍的必然性に通ずる道徳的感情と、たまたまイコールなのだと私は考える。
自らの命と引き換えに利他行動をとる実例すら、我々は知っている。




●カント vs ニーチェ
キリスト教思想が主流のヨーロッパにおいて、神に導かれる畜群としてではなく、自律的な人格としての人間を説いたカント。人格の尊厳は、善意志(道徳)の主体であることにおかれた。


ニーチェは、道徳を個人のしなやかさを奪うものとして否定した。人間が本来持つ性欲や、我欲をを邪悪な原理として見ることは不自然とし、その反対に、無私、隣人愛を価値そのもと見ること、肉体を放棄して精神や魂を重んじることは、生の否定と断じた。


ニーチェは、カントをドイツの偽金と称した。近代科学の普及しはじめたヨーロッパを再び過去に戻す理想主義、科学の拒否だとして。


なお、ニーチェは物事の本質は言葉で表せないと言う。
そもそも、世界は混沌(デュオニソス的)としたものと考え、本質を一つに収斂しようとする研究者や僧侶を嫌った。
カントも、物事の全容を知ること自体、不可能と考えていた。




●サイバー空間の「可想界」
カントによれば、理論的には、人々が普遍的法則を成す善意志で結ばれた「目的の国」が成立する。
私が思うに、ネット上のSNSは、カントのいう感性界(現実)、可想界(理性)の中間世界のように思えて、まさに目的の国が存立するのではないかと。もはや形而上学の世界でなく、善意志の集合体として興味深い。


#MEMO1
人間が彼自身の最大の幸福を得るための熟練を「怜悧」と呼ぶ。
一、世間的怜悧は、他人に影響力を持ち、自分の意図のために利用する対人的熟練。
二、私的怜悧は、全てこれらの意図を、彼自身の永続的利益のために合一させる明察。
このため、第二の意味で怜悧でなければ賢くないとカントは言う。

#MEMO2
たぶん憲法とは、定言的命法で書かれ、法律は、仮言的命法で書かれるものであろう。
定言的命令は、客観的、普遍妥当的な必然性という概念を保有する。
今新たな視座が得られた。これからの憲法改正論議をウオッチしていきたい。
え、このことが具体的、実質的な議論に資するか、自信ないケド