I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

思想のスナップショット


思想のスナップショットに、自分を映せ。


例えば、景勝地で風景写真を撮る。観光地で写真を撮る。
皆が撮る。雑誌やWEB上にあふれている写真をわざわざ撮る。


一方、新聞や雑誌に文章が載る。そこには思想がある。
それを皆がそれを読んで語る。自分の意見のようにSNSで拡散したりする。


そう、有識者や知識人と言われる人達は、思想の観光地だ。
一般人が、その思想を我が意とするとき、それは思想をパシャリと、自分のカメラで撮影するに等しい。


人々が思想を語るとき、それは記念写真を見せびらかすのに等しい。
知識や思想を語るのは、高尚めいているが、その本質は綺麗な写真が撮れたので人に見せたいのと同じ。
雑誌やWEB上にありふれた構図を見せられても人は有り難いと思わない。


だが、よく考えてみると、スナップショットには自分や自分の大切な人達が写り込んでいる。
景勝地や観光地に、自分や仲間達が写ることで写真はオリジナルになる。


では、思想はどうか。思想もそこに「自分」が織り込まれたときに、その人のものになる。
思想は、自分の立場や主張を込めてこそオリジナルになる。
そうすれば、人が聞く耳を持ってくれる。


思想のスナップショットに、自分を映せ。




では、思想とはどういうものか。


本屋で、東大入試の国語問題を扱ったビジネス本を見つけた。


ページを繰ってみると、見た事も無い著者の随筆が載っていて、手強い文章に思えた。
語られている概念が抽象的でかつ新しいものなため、日本語なのに日本語ではないみたい。


要するに新しいものを一から構築しているので、それに付いて行くのが大変という文章。
では、語られている新しい概念とは何か。
私なりに何日か考えた結果の気恥ずかしい結論めいたものが「普遍的必然性」。


それに対して、政治経済のように「理論」「経験則」「観察」「計測」などで展開される分野は、細かい理屈は分からなくても、何のために、何に使うのかが分かるだけマシだ。


哲学者のカントは、道徳を「普遍的必然性」のあるものとし、実用と区別した。
実用とは、何かの用に便利という意味。
つまり、ある一定の条件があって、それに対して有効というのは、普遍的必然性がない。
このような概念を人類全般の道徳とは呼べないというわけだ。


政治経済、比較文化、法律、経営、国際などは、人文系の学問であるが、実用である。
それに対し、哲学は、普遍的必然性を明らかにしようとするものであるはずだ。


だから、普遍的必然性を語ろうとする随筆は、難しい。
手にすることの出来ない、経験することの出来ない、実務に必ずしも使われない抽象概念だからだ。


要するに、何を言いたいかというと、政治経済、比較文化、法律、経営、国際などの思想というべきか実学は、実用向けなので、一生懸命向き合えば分かるはずのものだ。
実学の存在意義からして、一般人、少なくとも大学卒業程度の者が理解できるように書かれているはずなのだ。
誰にも読みこなせない、使いこなせなければ実用品と呼べない。


でも、東大入試に出題される随筆は難しいのだ。
普遍的必然性については、カントが例示した「約束を破ってはいけない」「自殺してはいけない」「自己研鑽を放棄してはいけない」「困っている人を見捨ててはいけない」など直感的にイメージできるものもあるが、東大入試に出された文章には「中間的な死」だとか難解な表現があるのだ。


そして、東大入試に出される文章は、少なくとも私が目にしたことのない著作家のもので、一般人には知られないところで読まれているらしい。
そのような文章に、何の存在価値があるのか、一般人に届かなければ無いと同じなのにと思うのだ。


でも、おそらく書き手も、一般人に読ませようとは思ってなくて、分かる人に分かればいいと思ってるのだ。
だから、秋元康氏のように持論をアイドルに歌わせたり、宮崎駿氏のように持論をアニメの登場人物に言わせたりせず、ハードカバーの書物に閉じ込めて平気なのだ。


そこで、私は一生懸命考えた。どうして、分かる人に分かればいいと思えるのか。
どうして、皆が理解できるように噛み砕いて説明したり、伝え方を工夫しないのか。
私なりに考えた結果の結論めいたものが「普遍的必然性」だ。
普遍的必然性がある思想なら、誰にでも当てはまるので、その力を信じて、じわじわと社会に浸透して変革に結びつけばいいと思っているのではないかと。


じわじわの意味を一日考えた。
つまり、普遍的必然性の思想は、インタープリター(翻訳者)や、仲介者が世間に広めること。


文系と理系の対応関係で例えるならば、

  • 普遍的必然性(哲学)⇔基礎研究
  • 実学(法、経済…)⇔応用研究・用途開発・技術化・商品化


だから、普遍的必然性の論者は、経済におけるビジネス to ビジネスであって、
ビジネス to コンシューマーではないのだろう。


言い換えれば、普遍的必然性の論文は、学者 to 学者であって、
学者 to 一般人ではない。


例えれば、普遍的必然性の論文は、思想の卸売業(問屋)であり、
思想のデパート(小売り)ではない。
卸売業は、倉庫からトラックで、業者から業者に運ばれるイメージ。
デパートは綺麗なショーケースで展示し、店員がお客様に丁寧に説明してくれる。


だから、普遍的必然性の論文は、文章が難解で、一般人には目の届かないところで流通しているのだと思う。例えば、大森荘蔵宇野邦一など(名前しか知らないけど)。
一方、テレビや流行の新書でよく見る著作家、例えば明治大学 齋藤孝教授は、どちらかと言えば思想の小売業者(デパート)なんだと思う。


要するに、文章が難解で、難解な普遍的必然性の概念を扱う文章が東大入試に出題されるということは、東大生には、普遍的必然性を追求し、自らが実学を実践するなかで、社会にじわじわ浸透させ、よりよいものに変えていく人になってほしいと期待していることの証左だと。


以上が、私がたどり着いた結論めいたものの全てである。


思想のスナップショットに、自分を映せ。




資料

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