I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

歴史と仮構、行為と本質


1.哲学者の宇野邦一氏『反歴史論』より


「歴史は、ある国、ある社会の代表的な価値観によって中心化され、(中略)…歴史における勝者がある以前に、歴史そのものが、他の無数の言葉とイメージの間にあって、相対的に勝ちをおさめてきた言葉でありイメージなのだ」


(解説)「人は歴史に支えられ、規定され、生を決定される。さらに次代に継承すべき重みもある。(出口汪 解説『東大現代文で思考力を鍛える』より)」


おそらく、ロシアが無理をしてソチ五輪を招致したのも、強いイメージが持つ力を後世に発揮し国威を高めんがためだろうと、私は思う。




2.三島由紀夫氏『小説家の休暇 (新潮文庫)』より


叙事詩」とは、行為そのものの中に善や悪や心を透視するという仮構によって成り立つ。
さらに、近代のもう一つの仮構は社会機構でああり、一つの行為は、無数の責任の訴求の連鎖に埋もれ、誰が真の行為者か不明となった。




3.宇野邦一氏と、三島由紀夫氏の随筆を読んで思ったこと


叙事詩」と「歴史」の区別すなわち歴史とは、宇野氏のいう”勝ちをおさめてきた言葉でありイメージ”であり、三島氏の述べたとおり、「叙事詩(人の心)」では語りきれず”社会機構という仮構”で語られた「事実」であるかと。


三島由紀夫氏は、人間の心が外側からはっきり見えるという仮構が成立するのは、勝利の瞬間のオリンピック選手、もしくは戦争しかないと述べた。社会機構という仮構により責任の連鎖に埋もれた行為(≒歴史)を語るには、叙事詩の法則に戻るしかなく、そこに表現の契機、芸術家の任務があると。




4.行為者の立ち位置確認

叙事詩人には、近代のジャーナリストのような何でも「われわれの共通の問題」に還元してしまう手品の技術の持ち合わせはなかった。


国際連合を論じ世界国家を夢想したりするときのみならず、ほんの日常の判断を下すときにも、知的な外観的な世界像と、人間の肉体的制約とのアンバランスに当面して、一瞬、目をつぶって「小さな隠蔽」「小さな抑圧」を犯すことに慣れてしまった。


人間の情念の普遍的法則に従って、一般人にその経験と同質の情念を与えようとする。(中略)…こうした伝達不能なもの、しかし強固に明確に存在するもの、行為の本質というべきものに直面する契機をつかむこと。


行為はまだ死に絶えてはいない。


三島由紀夫『小説家の休暇』)