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応分の場と義理


ルース・ベネディクト菊と刀』(1945年前後の書)によると、日本人は階級社会であるが、それぞれの階級に「応分の場」が与えられており、つまりその分を守る範囲において裁量が認められていた。


例えば、士農工商の下とされた階級の民にも、皮革製品を独占的に扱う権利が与えられていたし、社会的に地位の低かった女性も、家庭のことは一手に取り仕切っており、使用人を指図した。


このようなことから、日本人は、階級的秩序を守る従順さのある反面、個人の裁量の範囲を侵害されることには断固として拒む。
明治時代に日本人に接した欧米人が大きく戸惑ったのは、常日頃は自律的に振る舞う日本人が、時として、些細なことで怒り出したり、主張を曲げないことであった。
その背景に応分の場に対する日本人の考え方があったのだ。


さらに、日本人は、その応分の場から超ようとする者を見つけると、叩き落とそうとする。
「出る杭は打たれる」


同じ富裕層でも、その家系が「上流」とされる場合は、セレブとしてもてはやす。
同時に、一代で富を成した者を「成金」と呼び、蔑視する。


たとえば、同じIT系起業者でも、楽天の三木谷氏と、ライブドアの堀江氏を比べたときに、堀江氏に対する社会の仕打ちは知るところである。
大学教授の父を持ち、官僚を父に持つ妻、政財界に人脈のある三木谷氏はオッケーで、茶畑の中で育った堀江氏はオッケーでなかった。
さらに、刑を終えてなお、堀江氏は自己弁護するかのように、成金を肯定する発言をするし、周囲もどことなくそれを課しているところがある。
(この比較は、もっぱら事業で成長した前者と、投資で成長した後者という見方もできるが…)


同じように、労働環境においても、正社員、非正規社員が区別されるのも応分の場かどうかで決まってくる。つまり、同じ仕事をしているとしても、正社員でないのに、正社員と同等待遇などありえないと考えるのである。
さらに、大卒と高卒で昇進や給与で差が付くのも同じで、大学卒でないのに、大卒と同等待遇などありえないという訳である。
同様のことが男女差別にも当てはまる。


さらには、日本の縦割り行政にも言えるだろう。省庁間の力学は、政策によってではなく、応分の場すなわち省庁の縄張りを犯すものかそうでないかによって当否が決まる。


応用するならば、日本人と交渉する場合は、インセンティブを与えることも大事だが、相手の応分の場を尊重することが成功の秘訣である。
つまり、相手に裁量の与えられている領域を冒さないことが大事である。
逆に言えば、日本人は、自分の裁量権や既得権さえ守られれば、物質的な損失については、喜んですら負担しようとするかもしれない。


話を一歩進めると、このような応分の場を守る日本人の考え方と不可分一体なものに、「義理」がある。
これは、少なからず「不本意ながらも行わなければならないこと」の意味合いを含む。
その意味で、徳や孝のような「義務」とはニュアンスを異にする。


「義理」には二種類あり、ひとつは他人への義理であり、金銭や物を伴わない貸し借りである。
親に親切にするのは、義務であるが、親戚に親切にするのは義理である。
このように、生まれてすぐ組込まれる人間関係において発生する義理もあるが、社会生活をしていて背負う義理もある。
例えば、誰かに親切にされてお返しをしないでいると、とても窮屈な気持ちになる。義理を返していないからである。
見知らぬ人に席を譲られたり、ハンカチを拾われたりしたときに「すみません」というが、この意味は、「親切をしてもらったのにお返しをする機会がなく、義理が返せなません。申し訳在りません」という意味である。
中には、他人の世話になどなりたくない。義理を着せられたくないと思う向きもある。
同様に、自分に見合わない目下の者から助けを受けることが不本意である。その者は私のお返しを受ける価値のない者だからであるというロジックも成り立つ。
このようなことが分かっているから、他人が困っているのを見ても、日本人は簡単には手を差し伸べない。
この他人に対する義理は、貸し借りが等価であることが必須である。もらった利益よりも大きなお返しをすることは逆に失礼になる。


ふたつめは、自分への義理である。これは、自分の名誉を守るという意味である。
他人から汚名を着せられたとき、それを訂正したり、仕返しをして貸し借りをゼロにすることは当然だと日本人は考える。
それが、他人の生命や財産を侵害する行為であっても社会は咎めない。ただし、江戸時代の話。
その点、同じアジアでも、中国人やタイ人は、汚名を着せられたことを気にしないか、相手にしないことが美徳とされている。


このようなことから、日本人は義理を通そうとすることから、ときには、主君の命に対しても、姻戚の義理を優先することを是とするし、ときに徳目に反してでも、義理を通した者が賞賛される。
例えば、有名な歌舞伎の『勧進帳』では、弁慶が、主君の義経を罵倒してみせることで、難を逃れる場面が一番の喝采を浴びるのである。弁慶はかつて負け知らずの乱暴者であったが、義経に完敗を喫し、家来となる。その後は、義経のために大いに尽くした。おそらく、源氏が天下を奪還して、義経が応分の場(つまり天下人の列に並ぶこと)に就くためという思いがあったはずである。ただし、これは義理がもっと高潔な色彩を帯びていた時代の話である。
日本人が一番怖れるのは、「義理を欠いた人」と見なされることである。


冒頭の、「応分の場」と「義理」の関係であるが、日本人は、自らの応分の場を守ることは義理であって、他者に対し、応分の場を超えた振る舞いをしようとしないし、受け取ることもない。
さらに、応分の場を守ることが自分に対する義理であり、体面を保つことである。


義理という「不本意ながらも」のニュアンスのある動機は、自他ともにある階級に属する事が明確であることに由来する。
江戸時代には、庶民は名字がなかった。個性が尊重されるというよりは、社会的な存在であった。つまり、農民は農民として、大工は大工として、武士は武士として、大店の番頭は番頭として、若旦那は若旦那として、社会的に定められた自分の役割をきちっと演じるのが人生であった。私生活も親の決めた見合い結婚が当たり前で、恋愛結婚は「くっつき」と呼ばれ一段低く見られていたのだそうだ。
だから、正確にいえば、「個性という意味での自分」なんて無かった。生活はロールプレイングゲームだった。
したがって、商人が武家と婚姻関係を結んで、武士の身分を手にした場合は、その日から武士の応分の場を守ることに全力を尽くすようになる。昨日までは商人としての体面を全力で守ってきたのに。


要するに、日本人は、個人の応分の場を自他ともに認識しており、他者との関係性や当該個人のメンツ(看板)と密接している。
日本人は、各個人の応分の場から派生する義理について、”見えない出納簿”を用心深く記帳している。他者との貸し借りがプラマイゼロとなるように、自分の評判がマイナスのまま放置されることのないよう注意を怠らない。
そして、その尺度は、応分の場に見合うものであり、それ以上でも以下にしようとするものでもない。


(まとめ)


私が思うに、カントがいう道徳は、普遍的な価値観であり、義務である。
日本人はさらに、義理の概念を持ち、ときに義務より優先させる。
義務と義理は、日本人の倫理観の縦糸と横糸である。
義理は、日本人の抱く応分の場の概念と結びつくときに、日本人を規律正しくさせるし、攻撃を受けた場合には、応分の場を守る為に激しく、欧米人にとって野蛮に見えるほどの反応をみせる。
自分が攻撃を受けなくても、他人が応分の場を超えようとするのを見ると、許せない気持ちになり、「出る杭を打つ」
具体的には、正社員と非正規社員との処遇の差や、学歴差別、成金の蔑視などに見られる。
しかし、現在属する応分の場にこだわっているわけではなく、立場がシフトすれば、新しいステージに見合って振る舞うことに何の抵抗感もない。