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根暗なマイハートのネジを巻け!

日本人の恥、米国人の罪

日本は「恥」の文化と著した、ベネディクト『菊と刀 (光文社古典新訳文庫)


日本人を褒めてると思って読んでたら「恥の文化とは、他人が見ていなければ何をしてもいい文化」と斬りつけてきた。
言い換えれば「他人との関係」(義理)が重視されると。関係性において場面対応的な倫理観であると。

一方、欧米は「罪」の文化。罪は内発的な規律に基づく。他人の目は関係ない。欧米では、恥を道徳心と見なさない。


一例として、昨年起きた山本太郎議員が天皇陛下に手紙を渡そうとした件でも、メディアや世論の焦点は、天皇陛下への礼儀や、彼の立場など関係性であって、原発問題の本質論ではなかった。


十代のいじめでは、周りがいじめてるから自分もいじめる。つまり他者との関係性(義理)に流れる文化が残っている。


ルース・ベネディクトによれば、日本人は社会秩序に”従う”ことを「強さ」と認識している。自分の感情よりも、忠や義理を果たすことが大事。一方、米国では、社会秩序を”乗り越え”自分を通すことが誠実とされる。


ルース・ベネディクトによれば、日本人が法に従うのは、皇恩を帰すことに他ならない。日本は、お上の言いなりである。なぜなら、法に従うのは皇恩を返すことであり、警察官や税務署員は、臣民がささげる忠を取り次いでいる者だと。
アメリカでは、自分で自分の事柄を管理しないと、胸を張ることができない。アメリカ人は例え信号機であっても、自由を縛る法律を嫌う。アメリカ人は法律を悪と考えるが、それは法を守らなければならないという意識をもっていることの裏返しである。


現在の日本人の遵法精神はどうなっているのか。食品偽装や、銀行のモラルハザードなど歯止めが利かなくなってる。


ルース・ベネディクトによれば、日本映画は、ハッピーエンドは稀であり、登場人物が自己犠牲により、その責を果たせば十分通用した。戦争映画ですら、勝利の光景はなく、泥に埋もれた中国の町で野営する場面か、傷痍軍人となった男たちの姿。米国では反戦映画に値する内容だった。


日本人は精神力で何でも解決すると思ってると。死せる兵隊が、責任を果たすため、精神力で上官の元まで報告に来た逸話を日本人は信じたと。
著者の書きぶりは真摯であり、私もこの逸話が、仮初めにも外国人の笑い話になることを欲しないメンタリティを持っていたりする。


一方、米国は精神力ではなく、昨日何時間寝たか、今日何を食べたか、それによって今日どの程度のパフォーマンスを発揮できるかという考え方をする。


日本の戦闘機は航行能力は高かったが、防御力は弱かった。兵士は使い捨て同然だった。敵に撃ち落とされて帰るなどそれこそ恥と考えられていた。また、敵の捕虜になるくらいなら死を選んだ。ゆえに、投降してくる米軍人を日本人は唾棄した。


米国の戦闘機は防護装備にも重点が置かれ、撃ち落とされた兵士は、パラシュートで落下後、味方に回収され、以後、失敗を糧により経験値を高めた操縦士として戦地に戻って来た。
優れたパイロットを次々に失った日本に対し、パイロットを回収し再投入した米国とでは、戦いが長引くにつれ優劣は明らかとなった。