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菊と刀の日本


菊と刀 (光文社古典新訳文庫)

菊と刀 (光文社古典新訳文庫)


菊と刀』の意味。菊の花が象徴するのは、自由を自制する戦中および戦後の日本人の生き方のこと。刀は、狭い意味では刀の輝きを保たねばならない武士の義務であり、自己責任をまっとうしようとする日本人全体の強い意志のことである。日本人は自己の名声という刀を常に磨き、さびないようにしている。


「死んだつもりになって生きる」とき、人は自己観察を一切やめる。したがって、不安と警戒心も取り払われる。死人はもはや恩を返さない。そのような義務、義理から開放される。すなわち葛藤から開放される。


日本では、成功を収め、衝突をまぬかれるのは「誠実」という指数が備わっている場合に限られる。「誠実」であるとは、私利私欲に走らず、感情的にならず、行動がもたらす副次的な結果にも責任を負うこと。誠を備えて初めて人々を統率でき、己の技量を存分に発揮できる。


日本人社会は米国人から見るとストレスフル。第一に「恥」。所属集団の期待や要請に応じられなかった場合に起こる拒絶や嘲笑に起因する公恥。幼少期より「そんなことでは笑われるよ」「あの子には出来るのに貴方は出来ないの?」と刷り込まれる。敗者は恥をかいたことになる。=過労死、競争に弱い


日本では、所属集団(家族など)内で評価を得るためには、外部(学校、会社など)の評価を高める必要がある。期待や要請に応じられないとき、所属集団(家族など)はシェルターになってくれない。映画『そして父になる』でも、「怒ってやってください」と子の気持よりルールを優先する一幕がある。


自由とは、批判にさらされ「世間」からのけ者にされるという不安から開放されるという意味である。しかしながら日本では、個人は感情を押し殺し、欲求も諦め、一家、団体の代表として批判の矢面に立つ。善か悪かより、期待に答えるか否か、場面適応型の倫理観を持つ。(光文社『菊と刀』解説より)


日本人の場面適応型倫理観の主な例は、戦前と戦後の価値観の逆転。震災前後の原発に対する関心。さらには、十代の若者が使う「とりま(とりあえずまあそういうことで…)」


「恩」を米国人に納得させるためには、お金の貸し借りに例える。義理の貸し借り。恩を返さないと、やましい気持ちになる。時間が経つと大きくなる。不用意に恩を着せられると不愉快になる。夏目漱石『坊ちゃん』でも、絶交した同僚に対し、昔おごってもらったお金を投げ返す一幕がある。


日本人は、「忠」や「恩」を果たすための暴力や復讐に関心する。例えば忠臣蔵
「忠」と「恥」の関係はというと、主君がそれに相応しい行動をとらず自らに恥を欠かせた場合には、主君に報復することもあった。


日本では、幼少期が最も自由。ある年齢になるとしつけが始まり、勤勉、自重(慎重)、他人に後ろ指を指されないよう楽しみを諦める。大人は社会的圧力を受け、子育て期間は最も不自由。老後は再び自由。一方、米国では、子どものときが最も不自由でルールを覚える。大人になると自由が増えていく。


日本の子どもは、父親との心の仲間意識とでも言うべきものを当然視している。また、父親を誇りにしていることを人前でも隠さない。だから、父親が単に声色を変えただけで、子どもは父親の意思を読んで実行に移す。日本の父親は息子を可愛がる。西洋では見られないことである。(→本当か?)


日本は、階層的社会である。それは、西洋のように選挙で選ばれた者の権威を受入れる類いの階層とは違う。
職業、親子、富貴に関してそれぞれの「応分の場」があり、それが侵害されない限り問題は生じない。上下服従とも違う。父親の権威は絶対ではなく「管財人」に等しい。成金も見下される。


まとめ。ベネディクトが驚いた日本人の特徴は、一つに、社会的圧力が大きい。日本人は世間の裁きの目に常にさらされていた。次に、二面性である。従順であるが、恥をかかされたときは報復する。慎重に見えて、大胆でもある。幼少期に自由を経験していることが理由にあると結論づけている。