I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

むかし黒い犬を飼っていた。
小学校から高校まで。


発情期に首輪をくぐり抜けて家出し、帰ってくる頃には家の周りのメス犬がみな黒い子犬を産むような、やんちゃな彼だった。


そんな彼も病気には勝てず最後の方にはかなり弱ってきていて、散歩に出かけても家から遠くまで行けなくなり、もう歩けないとしゃがんで動けなくなった彼を、抱きかかえて家に戻ったときは泣いた。


最後には、犬小屋の中で、入り口に尻を向けて寝るようになった。そんな奇妙な寝方をするのを見たことはなかったので、彼の死が近いことを覚悟した。


それまで、登校時にはいつも彼の頭をなでて挨拶をしてから出かけるのが日課だったが、彼がもう天寿を待つばかりとなったとき、わたしは、あえて彼に朝の挨拶をするのを止めた。


なぜなら、学校から戻ったときにもまだ生きていて、必ず逢えると信じていたから。朝の挨拶をしないことは、「帰るまで死ぬなよ」の挨拶だったのだ。


ある日の授業中、黒い蝶が目の前を舞ったように見えた。
驚いて見回すともう蝶は見えなかった。
帰宅すると彼は天に旅立っていた。


彼の死後、朝の挨拶をしなかったことは身勝手で愛情の無いふるまいだったかもしれない。そんな風に気になっていたのだが、偶然手にしたこの本に、同じような考え方が見つかった。


死期の近づいた飼い犬の写真を撮らない、それは飼い犬の存在を過去形で考えていることになるから、というやりとりが367p〜に書いてあった。

「いつか写真を撮ったことをよかったと思う日がくるよ。カレーニンは僕たちの一生の一部だったからね」
「どういう意味、だったというのは?」
「ごめんよ」
「だからカメラは持っていかないわ」

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)