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『八日目の蝉』映画をiTunesから視聴した。
井上真央さんの浮かない感じの演技は、自分の妹が実家に帰ってきたときの脱力状態と同じ感じに見えたので、本当らしいと思ったし感情移入できた。
小池栄子さんの肩をすぼめながらも実は取りにいこうとする演技も、嘘がない感じで、温かい気持ちで見られた。
話の筋については、盗んだ子どもと一時でも心の通い合う時間を過ごせて、それが最終的にはお互いの自己肯定感の源になったっていう大まかな理解です。
そこから、あえて発想をシェイクしてみると、人間ってやつは、一緒に時間を過ごせばそれなりに和合することができる生き物なので、婚姻とか家族のようなルールでお互いを縛り付けておかないと、何しでかすか分からないよって話が対照的に見えてきた。
こんな見方をするのも、安部公房の戯曲『友達』を読んだからだと思う。これは、無関係な人がある男の部屋に9人も侵入して居座るという話であり、対照的に、社会のルールに守られて個人の権利や自由が保たれている常識的社会はありがたいと思った。
でも一方で、この男は警察にも、恋人にもこの9人が赤の他人であり不当な居座りであることを信じてもらえずむしろ無関係な侵入者の側の見方になっていくというストーリー展開から、はたして人間関係は確かに目に見えないものであり、実際上書きされていく流動性を持つと思い至れば、例えば婚姻であるとか家族であるとかの位置関係を当たり前に漫然な態度でいるとしたら、それは違うんじゃないかという気持ちになった。
これは『八日目の蝉』にも通ずると感じる。
関係ないけど、食堂でご飯を食べていたら、隣の見知らぬ二人連れの一方が「自分の奥さんは体調が悪いのか機嫌が悪いのか分からないけど黙り込むときがあって、そういう時とても気を使う」と言っていた。
この場合の妻は、果たして妻の座に既得権的に安住してしまっている人なのか、辛い顔を見せられる夫と思って安心して素を見せている人なのか、いずれにしろ夫の胸にはひそかなクライシスが忍び寄っているのに。
それはさておき、映画『八日目の蝉』のラスト前に、永作博美さんが連行されながら叫んだ言葉は、芯食った名台詞だ。
おそらく、「この子は・・(一秒の間)・・・名台詞」この名台詞を言わせるためにこの映画があるのではないかとすら思える。
この一秒の間に、観客はその人ごとに心に浮かぶ言葉が異なるだろうが、大きく2つに別れるのではないか。
そして、その映画では言わなかった方の答えを言ってしまいそうな登場人物が皮肉なことに、盗まれた子の実の母親である。
森口瑤子さんは、心に空洞を抱えた母親の振る舞いを見事に演じていた。結局、盗んだ女(永作博美)と盗まれた子(井上真央)だけは最後に失くした心の破片を取り戻したのかなと思えるのだが、森口瑤子さん演じる実母親だけが最後まで心の空洞を埋めることが出来ない。
おそらく、本来は幼少期の子どもを育てることで身に付く母性を、その期間に子を盗まれていたことで、体得する機会を奪われてしまったためなのだろうと思う。
何を偉そうに書くと思う向きもあろうが、このように考えたのは、相田みつを詩『観音さまのこころを』*1を読んだからである。
趣旨は、>赤ん坊の泣き声を聞いただけで母親には赤ん坊の気持ちがわかる、母親は子どもにとっての観音様、母親は子どもの気持ちになりきる、子どもの声を全身で観ている>という前半部分から始まり観音様のこころの大切さを表した詩だ。
永作博美さん演じる盗んだ母が最後に発した、私が思う名台詞は、まさに観音様の一言だったのである。
最後にまとめ。人間の感情は上書きされ本来は人間関係も上書きされそうなものだが、婚姻や家族関係はたやすく上書きしないことを皆が守ることで社会の秩序が保たれている。ただし、当たり前のこととしていると崩れ落ちることがある。
相手の気持ちに立つ「観音様のこころ」を持てば、心が通い合う、そこに人間の救いがある。
ただし、他人の子を盗んではいけない。