I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

シェアー私の切り口


85%が内需の日本経済の吉凶を占うキーワードは「シェア」ー自動車、自転車、家、ファッション、エネルギー、涼、オフィス、スタジオ、機械工具、食品、農地、仕事、金融。


個々が城を築き財を囲って見せるこれまでの成功モデルでは足りなくて、興味関心・個々のアイテム単位で人・空間・時間・物質を「共有」する身軽さが訴求力の高い価値観となりつつある。


例えば旅行が文化として成熟しているとされる欧米では、富裕層が敢えて宿や交通手段をシェアする身軽さに通じる。


このことが、少子高齢化核家族化や個人主義的に分断されていく日本を再び結びつける蝶番となりシェア文化を司る新たな「公」が付加価値を生むのか、それともシェア=レンタルや使い回しによる経済の収縮になるのか、よく分からない。


シェアには2種類あり、一つはカーシェアリングやシェアハウスのように誰のものでも無いものを共有する形態、もう一つはソーシャルネットワークで写真や知恵を共有するような、一人ひとりが持っている物を差し出し合うこと。
成熟した経済のパイを拡大させるためには後者の方にインパクトがあると感じる。


シェアして皆に行き渡ったほうが偏在が無く最適解が得られて全体が幸せになるのだし、立派な戸建ての壁の向こうで孤独死なんて話は聞きたくない。


現実は、相互不信や恥の文化からシェアの第一歩に抵抗感は大きい。例えば、震災直後に起きた買い占めのような行動原理はシェアしてもらうのは恥だと考えるから。


シェアがなされれば少なくとも社会保障のコストは下がり、富の共有による豊かさを誰もが感じられる世の中になる可能性がある。


現実は、シェアは容易ではない。家族ですら関係が壊れていたりして、親は生活保護、子どもはお金持ちというような断絶が存在する。人間の深い部分にある業のようなものを解きほどく必要がある。
さらに、シェアが定着すると働かなくなる奴がたくさん出てきて社会の活力が失われる可能性がある。
また、ソーシャルメディアの情報共有における他者からのフィードバック獲得に夢中になり、ネット世界に依存する病も現れ始めている。


シェアの定着には課題があると考えるが、それでは、経済のしくみは、現状で十分なのだろうか。
サービス経済や行政が肥大化して、これまで家族隣人お互い様で共助してきた、家事・育児・介護をはじめお互いのライフラインとして機能してきた伝統的コミュニティ(自助・共助)が、企業サービスや公共サービス(公助)に置き換わり、隣人であっても、企業、行政、町会やマンション管理組合などを介したツリー構造の結びつきとなっている。
さらに、企業・公共サービスのIT化によって、インターネットを介した取引やシステムが人々をますます隔てていく。


シェアは、ツリー状に変容した人間関係に、横串を通すということ。
例えば、ウェブサイトに生まれた実用本位の掲示板(クレイグリスト、ヤフーオークションなど、運営のほとんどを利用者が行い、企業等の関与は最小限)によって、人々が直に横線で結びつき、用途や目的に応じて柔軟にやり取りする。それは必ずしも家族や隣人ではない。


マズローの欲求段階によると、物質的欲求に満たされた人は自己実現を求める。私達には仕事では満たしきれない精神面や知性面の欲求がある。自分が重要だと思う領域で無償労働することによって、尊敬や注目や観客を得たい非貨幣的な生産経済にウェブがツールを提供した。


具体的には、WikipediaSNSによる情報交換や物々交換、リナックスを初めとする基本ソフトのオープンソースなど、人々の善意の無償労働(フリー)を社会に還元するしくみがウェブサイト上で活発になっている。


人口減少期を迎え、これまで人口増加を前提とした社会のセーフティネット存続が難しいとされている。
公助型ではない、自助・共助型の社会保障の在り方として、シェアそしてフリーの概念が鍵だ。


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