I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

本質と言葉


1.言葉では全てを表せない理由。ものの本によると、言葉では、他と区別することはできる。その色や形に言葉を与えることも出来るが、比喩である。つまり、対象を他と区別し比喩的に表現しただけでは足りないと。ただ、私が思うに、このロジックが表そうとしている対象の本質は実生活に関係ない。


2.哲学の本では、木の葉を木の葉というだけでは足りないとするが、実生活では他人とその情報を共有できるなら、その対象物や感情に何でもいいから名前が付いていれば十分だ。実際、SNSでは感情が記号化され、事物や感情を名指しするツールは言葉でも記号でも絵でも何でもいい。


3.言葉に残された役割は、論理表現だが、ツイッターを眺めるかぎり、論理表現は少なく、やはりコミュニケーションツールだと感じる。哲学が言葉がどうのこうのいうのは、言葉が小説家や政治家や随筆家などプロだけのものだった時代の話だと感じる。


4.今みたいに誰でも言葉を晒して生きている時代には、言葉の価値は、本質的な何かというより、世間一般の人に選別される何かだ。言葉が本質を言い当てられないというのも当たり前で、例えば同じ人を指しても「男」「老人」「父」「社長」「がん患者」など、社会的には多面体であり、家族にとっては、会社にとってその人は、など様々な本質がある。


5.いやお前が言っているのは、コミュニケーションとか、社会的存在としての人間の話をしているんだろ、という意見もあるだろう。ニーチェ永劫回帰に接した体験とか、宗教的体験、愛、主観などは言葉ですべて表すのは難しいし、個人的な定義にとやかく言うつもりはない。
しかし、現代社会では、万人が共有すべき物事の本質が記号化し、物格化して言葉に近づいてきていると感じる。例えば「放射能」という言葉に何を感受するか、漫然と記号のように扱っていると、深刻な事故の現実に目を背けることになる。


6.今日の朝ドラ『あまちゃん』でも言ってたけど、「被災地」と言っても悪いことばかりではく、復興に向けた良い話だってあるはずだ。世界が複雑化し、不確実になってきた今こそ、ワンフレーズで分かったふりをせず、灰色の現実を深堀りする心の一手間を惜しんではいけないと思う。


7.これだけインターネットが普及して、人に何かを質問すると「ググれカス!」と罵られる時代であるのに、テレビや雑誌などでは、解説番組や記事が多くて、人々は現実の解釈を欲しがってしかたないようだ。気持ちのいい言葉を受け、批判の言葉を誰かに投げつけても何も変わらない。


8.明日、2020年のオリンピック・パラリンピック招致や、レスリングなどの競技種目に結論が出るが、その解釈も多くが飛び交うだろうけれども、紋切り型の理解で終わらせてはもったいない。スポーツを通じて国民が健康になれば医療費の抑制になるし、国際的な交流、老朽化した社会インフラの更新も大事だ。招致の成功、不成功に関係なく、都民として関心を持ってゆきたい。