- 作者: ジャレドダイアモンド,倉骨彰
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2000/10/02
- メディア: 単行本
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昨日のつづき。
本書の理論を踏まえ、
『もういちど読む山川日本史』
を読んでいく。
まず、本書が説く次の環境要因を意識しながら国家の成り立ちをみていく。
●食糧生産に適した作物がその地域にある、又は伝来する
●家畜に適した動物(早育、従順)がその地域に居る、又は伝来する
日本人は何処から来たのか。
- アジア大陸南部の南方系古モンゴロイドの系譜を引く縄文人が原型で、大陸北部の新モンゴロイドが弥生時代から西日本を中心に渡来し、縄文人の系譜を引く人と混血を繰り返し日本人が形成された。
- なお、アイヌや琉球の人々には、古モンゴロイドの形質が色濃いといわれる。
- 言語的に「ウラルアルタイ語族」ということでロシアやモンゴルからきた民族と習ったが、『もういちど読む山川日本史』には載ってない。インターネットで調べてもはっきりしない。
狩猟採集の始まり。
- 縄文時代。最古の土器が12000年前とある。
農耕文化の始まり。
- 弥生時代。紀元前4世紀、つまり2400年前に中国から水稲耕作と青銅器・鉄器を特徴とする農耕文化がおこった。
- 水稲耕作は九州地方にはじまり、紀元前後に関東地方、中国から伝来後600年を経て、紀元後2世紀に東北地方北部までひろがる。
- イメージとして、キリストが生まれた頃に、日本では関東地方に稲作が伝わって弥生土器を使って生活をしていた。そのころから生産を高め富を蓄える者が現れ身分の別がおこり、治水灌漑などの共同作業等のために権力を持つ首長が生み出された。
100余りの小国の時代。
- これらの統一は、中国や朝鮮の書物や、国内から出土する遺跡から推測できる。
- 邪馬台国。『魏志』倭人伝によると3世紀に卑弥呼という女性による30カ国ほどの連合国家があった。邪馬台国の所在は二説あるが、西日本から九州のどこかだったとされている。
- 『宋書』倭国伝によると、5世紀には日本から宋に使いを送る王がいたと書いてある。これは大和の王であり、『古事記』『日本書紀』に伝える雄略天皇と考えられ、自らを地方の首長を統合して大王の地位を築いたと示している。
- 実際のところ、埼玉県行田市にある稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳の出土品に「雄略天皇」の名が刻まれており、5〜6世紀には大和王権が、東国と九州の豪族を支配する勢力であったことが明らかになっている。
- 大和王権の国内統一は進み、朝鮮半島南部にもその勢力を伸ばしていた事が分かっている。
大和朝廷。
- 5〜6世紀に大和朝廷は地方豪族を取り込み、戸籍をつくり直接の支配を強化していく。
- 603年聖徳太子による官位一二階の制。
- 645年大化の改新により、地方豪族から土地を取り上げ税を納めさせる代わりに食封を与え、軍事・交通の制度や戸籍や田畑の登録を行った。
- 701年大宝律令が定められ、刑法や行政法など国家統治の法が整えられた。
- 8世紀の初めに「日本」という国号を称するようになった。
このようにして日本の基礎が成った。
ここからは、次の環境要因についてみていく。
●他地域との間の競争、物や情報の流通がある
●競争や他地域からの伝来を受け入れる社会の許容力、多様性を認める風土
大宝律令以降の国家の成り行きは、分業の過程から「武士」が誕生し、武士が政治的権力を掌握するようになり、何回かの政権交代や戦国時代を経て江戸時代に至る。
その後、外圧や戦争を経て、明治維新、高度成長時代という2度の急速な発展を経験し現在に至る。
国内の交流、競争について。
- 源平の合戦、戦国時代、関が原の合戦など東西で雌雄を決する戦いや、朝廷は西に幕府は東におかれる時代が長く、また江戸時代の参勤交代制度などにより東西の緊張感や行き来があったため、国内における交流や競争があったと考えられる。
- 16世紀に種子島に鉄砲が伝来した例をみても、大名が争って鉄砲をもとめ、その製造に刀鍛冶職人の技術を応用するなど、競争と創意工夫が積極的に行われる状況にあったことが分かる。
外国との交流、競争について。
- あらゆる意味で中国、朝鮮の影響が大きい。
- 仏教の伝来は朝鮮から6世紀とされている。
- 6世紀後半から9世紀前半まで遣隋使、遣唐使を派遣して、中国から律令制度等を学び、漢語や仏典を持ち帰った。
- また、室町幕府と明における勘合貿易など貿易も行われていた。
- 中国、朝鮮との間においては、14世紀以降に発生した倭寇や、16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵など、なんとなく日本の方が膨張したがっているように見える、明治以降はそれが現実のものとなる。
外圧について。
- 13世紀の蒙古襲来がある。
- 元のフビライ、史上最強の敵は2度攻めてきたが、武士がよく戦い、大暴風雨や元が海をこえる戦いに不慣れだった事などもあり日本軍が勝利した。
- ヨーロッパが日本に気づいたのは、13世紀後半のマルコ・ポーロ以降か。インターネットで調べると、『東方見聞録』において日本は「黄金の国ジパング」と紹介されているが、マルコ・ポーロは実際に日本へ訪れていない。中国はヨーロッパと取引するために日本から得た金を用いていた。
- 私の考えでは、「黄金の国」と聞いてはヨーロッパの食指が日本に向きそうであるが、大航海時代の前においては、中国のその先にある国に行くのは考えてもいなかったか、中国の一部だと思っていたのか知らないが、ヨーロッパ人が日本に来るのはこれから300年程度後の話。
- このことから考えると、日本はユーラシア大陸の極東であり、さらに中国が間にありクッションの役割をしていたので、いい意味で孤立していられた、しかも中国を通じてユーラシア大陸の文明は十分に吸収することができたという位置にあった。
その後、16世紀以降にスペイン人やポルトガル人が日本にやってきた。
- その背景として、イスラム教徒によってアジアとの交通をさえぎられたヨーロッパは陸路をやめ海路によりアジアにアクセスするようになったことがある。
- その歴史は、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着したことに始まるというから西欧の日本に対する認識の低さが推測できる。
- 当時の日本人はスペイン人やポルトガル人を南蛮人と呼び、南蛮貿易では、日本はおもに銀や刀剣・海産物を輸出し、鉄砲、火薬、絹布などを輸入した。
- キリスト教については布教をつうじた植民地化を避けるため豊臣秀吉や徳川家康によって禁止された。
江戸時代の平和外交そして鎖国。
- 徳川家康はオランダ人ヤン・ヨーステン、イギリス人ウィリアム・アダムズを外交貿易の顧問とするなど平和外交を行った。
- スペイン、ポルトガルが生糸などを持ち込んだほか、日本からも海外におもむき、九州、長崎、京都の大名や豪商が朱印船貿易により、アジアの絹織物、砂糖、鹿皮などを輸入し、銀、銅、鉄などを輸出した。
- このように、実は日本、明治維新の岩崎弥太郎を待つまでもなく、江戸時代当初は海外貿易が盛んだったようだ。伊達政宗はメキシコと直接の貿易をめざしたほど(目的を達せず)。
- しかし、家康はヨーロッパの植民地政策を危険視し、キリスト教の禁止とからんで海外貿易も制限していく。
(外交ルートは4つに限られた)
なぜ鎖国を海外は受け入れたか。
- 私が考えるに、ヨーロッパ諸国がお互い牽制しあっていたからと思うし、ヨーロッパから日本が遠かったため侵略するほどの兵力を輸送できなかったからとも想像する。
- また、ヨーロッパにとって日本は戦略上の優先順位が低かったと考える。これは、後に来るアメリカが太平洋航路の拠点として日本を重視したのとは異なる。
- それに加え、オランダ人やイギリス人から当時の植民地政策にかかる情報を日本がよく収集していたから、うまく諸外国に対処してこれたというのも大きいのではないか。
- これは、インカ帝国の王がアステカ帝国がスペインに侵攻されている事実を知っていたら、みすみすピサロに捕らえられることはなかっただろうことから推測できる。
- 日本は、スペイン、ポルトガルが布教を通じて植民地化する手口を事前に知る事ができて、未然に防御策を講じることができたのだ。
ペリー来航。
- 19世紀にアメリカは、蒸気の力で進む鋼鉄の軍艦をもって日本に姿をあらわす。
- アメリカは北太平洋での捕鯨や中国にいたる新たな太平洋ルート上の食糧や燃料補給の拠点として日本を重視した。また、蒸気船は日本を軍事的に威圧するに十分な航海、輸送能力を持っていた。
- ペリーの交渉は、これまでの諸外国よりも強行姿勢で武力も辞さない態度を示した。
- 日本、やむなく開国。
日本は欧米諸国との差に気づいた。
- 競争の原理が働き幕府は洋学教育、航海術習得、鉄製の大砲製造などに取り組んだ。
- さらに、薩摩、長州、佐賀などの雄藩は、一層の洋式軍事技術を導入していく。
- これら雄藩が独自に勢力を持ち競い合っていたことも多様性と競争性の意味で日本の発展に大きく寄与したと思う。
- それどころか、薩英戦争や、長州藩が英・米・仏・蘭連合と戦うなど、各藩が諸外国と伍したプライドを持っていたことに脱帽する。
統治機構の改革。
- 日本は統治機構もすばやく見直した。
- 欧米列強と対抗するために国内が力を合わせることが必要であるとし、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、山内豊信、岩倉具視らの働きで幕府は滅亡し、新政府が成立した。
- 新政府は官制を整え、身分制度の改革、税制改革、徴兵制度の導入を行った。
- また、廃藩置県を行い諸大名を藩政から退け東京に住まわせ、政府の任命した府知事、県令を派遣し全国は政府の直接支配におかれた。このような大改革は各地に動揺をもたらしたが、その必要性を理解する知識のある藩士達の存在等により比較的円滑に移行できたとされている。
殖産興業〜文明開化
- 日本は経済力向上のため富岡製糸工場など多くの官営工場を次々に設立、貨幣制度の改革、鉄道の建設による通信交通網の整備、日本郵船会社の設立、日本銀行の設立などの一連の改革を行う。
- また、欧米の制度や文物を積極的に取り組み、自由と権利の思想、活版印刷の発達、小学校のはじまり、街路には馬車や人力車が走り、旧暦も太陽暦に改められた。
- このような風潮のなかで、日本の伝統文化が軽視され破壊される傾向もみられた。
- 日本が欧米の技術や制度を急速に吸収できたのは、その前提として、鎖国時代からもオランダを通じて海外の情報を得ていたことや、江戸時代から鉄の精錬や造船にとりくんできた雄藩の存在、寺子屋の存在により庶民が文字や計算能力を持ち技術や情報の伝播が早かったことが考えられる。
- 例えば、製鉄技術が発展しても造船技術がなければ船はつくれない。製鉄技術も造船技術もあって外来語を理解できる人材もいたという、多様な蓄積が相乗的に働いて発明や進歩が可能となる。
- このような蓄積が日本国内にあったこと、それを可能とする日本人の勤勉さや進取の気性のようなものの存在は大きかったのではないか。
国会と憲法。
- このようななか、新政府の要職は薩摩、長州出身の一部の政治家で占められていたため、議会の設立と国民の政治参加が論じられた。
- 自由民権運動とよばれるこのような動きは各地で起こったが、政府は集会を取り締まる等により妨害した。
- しかし、明治十四年の政変等により、自由民権の動きが抑えられないことが分かると、政府は君主の権限の強いドイツ流の憲法をつくる方針を定め、1882年に伊藤博文らがドイツに派遣され、1889年2月11日に大日本帝国憲法が発布された。
- 天皇は国の元首として国家を統治し、軍隊の統帥、条約の締結、緊急勅令の発布など広汎な権限をもった。国務大臣は天皇に対して責任を負い、議会に対する責任は明確でなかった。
- 1890年に最初の衆議院総選挙が実施され、第一回帝国議会がひらかれた。国会は立法や予算審議の権限を持っていたが現在の国会と比べれば権限が小さかった。
- 1894年、1904年の両戦争は直接間接の差はあれ、朝鮮の権益をめぐる対立のなかで起きた。
- そして日本は勝利する。
- 司馬遼太郎『坂の上の雲』に登場する秋山好古、真之兄弟のように学問と志により国を背負う人物の活躍の時代。身分や出身に関係なく、試験に合格した大卒者が官僚となり学歴社会が築かれた。
その後、日本は外圧をかける側になる。
- 1906年、南満州鉄道株式会社を設立。
- 1910年、韓国併合。日本は列強の植民地政策をまねて、東アジアの勢力拡大を図る。
- 1911年中国に辛亥革命の混乱に乗じて日本は袁世凱政府に二十一カ条の要求を提出して大部分を認めさせる。
- 1914年、第一次世界大戦がはじまると日英同盟を理由としてドイツに宣戦し、ドイツ軍基地青島や南西諸島の一部を占拠した。
- 1918年、ロシア革命の混乱期にアメリカの要請で日本はシベリア、沿海州、北満州に出兵し、事態収拾後も駐留し非難をあびる。
- 1921年、ワシントン会議。日英の軍拡を抑制し、日本の中国進出をおさえたいアメリカが開催。日、米、英、仏が四カ国条約をむすび、太平洋の島々の安全保障をとりきめる。
- 1922年、ワシントン海軍軍縮条約。主力艦の保有量比率を英米各5、日本3、仏伊各1.67とする。当時日本の造船量は米英に次ぎ世界3位になっていた。
- 1924年、日本は国際連盟の有力国として国際協調につとめ、特にアメリカとの強調関係の維持を図る。
- 1930年、満州事変。中国の半日民族運動が激化。満州における権益をまもるため南満州鉄道の線路を自ら破壊し中国に戦争をしかける。
- 1935年、国際連盟脱退。中国政府は満州事変を日本の武力侵略として国際連盟に訴えた。リットン調査団の報告にもとづき国連が日本に満州撤退を求めると日本は国際連盟を脱退して孤立化。
- 1936年、日独伊三国防共協定。国際的孤立化を深めた日本はヒトラーのナチス独裁政権やムッソリーニのイタリアファシスト政権に接近。(枢軸陣営)
- 1937年、日中戦争。中国は西安事件をきっかけに内戦を停止し抗日気配が高まる。この状況下、盧溝橋や上海において日中両軍が衝突。南京事件で日本は国際的非難うける。
- 1938年、国家総動員法制定。議会の承認なしに物資や労働力を戦争のために動員できる。軍事費が一般会計歳出の4分の3に。
- 1940年、「ぜいたくは敵だ」。砂糖、マッチ、木炭、米、衣料などが次々に切符制・配給制となる。
- 1940年、南進機運高まる。東南アジアの英、仏、蘭の植民地を日本の勢力圏にとりいれ石油、ゴムなどの重要物資を獲得。英米との衝突覚悟。
- 1940年、日独伊三国同盟。
- 1941年、日ソ中立条約調印。これにより日米関係ますます悪化。
- 1941年、インドシナ南部進駐。アメリカが経済制裁強める。内容は、在米日本資産の凍結、対日石油輸出禁止。英、中、蘭と連携して経済封鎖(ABCD包囲陣)。石油の禁輸が日本にダメージ大。
- 1941年、対米開戦論高まる。東条英機内閣による日米交渉は妥結のみとおしなし。
- 1941年12月8日、真珠湾攻撃。イギリス領マレー半島上陸。英米に宣戦布告し太平洋戦争はじまる。
- 1942年、当初は優勢。香港、マレー半島、シンガポール、フィリピン、インドネシア、ミャンマーなど東南アジアのほとんど全域を占領。アジアを欧米の植民地から開放し”大東亜共栄圏”をつくるという戦争目的をかかげる。実際は日本軍が支配(資源略奪、天皇崇拝強要、強制就労等)し、残虐行為があったため占領地で反日機運高まる。
- 1942年、ミッドウエー海戦の敗北をきっかけに戦局は急速に日本側に不利となる。以後、ガナルカナル島の敗退、サイパン島陥落。
- 1945年、東京大空襲、硫黄島陥落、沖縄陥落、広島長崎被爆、ソ連が日ソ中立条約を破棄し満州等に侵攻、ボツダム宣言受諾。
現代の日本。
- 1952年、敗戦から7年間日本は連合国軍に占領下にあり、吉田茂内閣においてサンフランシスコ平和条約により日本は主権を回復する。
- 同年、日米安全保障条約がむすばれ、日本国内及び周辺にひきつづき米軍が駐留し、平和維持に必要な場合などに出動できることとした。
- 1956年、鳩山一郎内閣においてソ連との国交を回復し、国際連合にも加盟した。
- 1972年、田中角栄内閣において中華人民共和国と国交正常化が成る。
- 1975年、三木赳夫内閣において主要先進国首脳会議(サミット)に加わる。
- 経済は1950年代後半から輸出が増加し、池田隼人内閣において”所得倍増”をとなえ高度経済成長政策がすすめられた。
- 1960年代も石油化学、自動車など重化学工業で反映し、国民総生産(GNP)がアメリカに次ぐ2位となった。
- 1964年に東京オリンピック、1970年に大阪で万国博覧会が開催され日本の文化、技術が国際的に高く評価された。
- 1970年代には、いっそう輸出を増大させ日米貿易摩擦が深刻化するほどになった。同時に、産業開発による大気、河川、海水汚染、各地で公害病が発生、大都市の過密による地価高騰、住宅難、交通渋滞が発生し、地方では過疎化がすすむなど社会的ひずみも生まれた。
- 1980年代も安定的に成長し、毎年数百万人の人々が海外旅行に行き、平均寿命は世界で一、二を争う長寿国となった。
- 1990年代にバブル経済が崩壊すると景気は一転して低迷。大企業の経営破たんがあいつぎ、雇用不安を招いた。
- 2000年代に小泉純一郎内閣において構造改革を目指すも、景気低迷は続き現在に至る。
1990年-2009年を振り返る。
- それ以前のような右肩上がり経済とは異なる社会となった。国内総生産(GDP)は95年から停滞している。
- ただし、インターネットや携帯電話など便利な商品があふれ、女性の社会参加や男性の育児休業など生き方も複線的となり、エコロジー意識の普及などもあって成熟的な社会になったのかもしれない。
- 日本の国際的役割はいっそう高まっており、日本の政府開発援助(ODA)額は世界1位に。湾岸戦争をきっかけに人的分野の国際貢献を日本に求める声が高まり自衛隊の現地派遣実施。カンボジア総選挙協力をはじめ、2001年アメリカ同時多発テロ発生後のインド洋軍艦補給活動、イラク復興支援を行う。
- 1995年の三宅島噴火、2000年の阪神淡路大震災などの自然災害のほか、茨城県の核燃料加工施設の臨界事故をはじめとする人為的事故が発生。1995年に地下鉄サリン事件発生。
- 水俣病遺族補償や、B型肝炎訴訟など高度成長期に発生した社会問題の補償が行われ「これまでの反省」と、JALの経営再建問題のような「今までのやり方が通用しない」ことに直面している。
- 個人と社会の関係性も変容。生涯未婚率の増加、核家族化など社会の生活単位が小さくなり、企業サービスが従来親子親類でお互い様のことまできめ細かくフォローし、各人がそれぞれの生活スタイルを楽しむ一方で、地域コミュニティーが希薄化し、「孤食」「孤独死」「孤育て」「老老介護」「ひきこもり」など一人ひとりが問題を抱え込み暮らしている。
- 円高やデフレにより企業の売り上げは落ち込み、合理化による不安定で過酷な労働環境や、「格差」「勝ち組負け組」「ワーキングプア」などかつての分厚い中間所得層の消失で、国民の生活にきしみが生じ、将来に夢を持てない若者も増えている。
- 地域経済の落ち込みも深刻。少子高齢化が進み、税収が回復しないなかで、公共事業の継続も難しいなど成長戦略の切り札が見つからない。
- 中国をはじめアジア諸外国等の経済成長が著しく国際競争が激化。企業の多国籍化や生産ラインの海外移転により日本企業の発展が日本国民の雇用増や税収増に直結しにくい状況もある。
- このような、日本の舵取りが困難な状況に呼応するように、2009年に自民党から民主党へ政権交代がなされた。今日的課題に大鉈を振るい日本の将来について面目の一新が期待されている。
- 日本は外圧や戦争を経て、明治維新、高度成長時代という2度の急速な発展を経験し現在に至る。
- そして、その2度において旧来の体制が改革されたという事実がある。また、国のため地域のためを思う人々が芽吹き活躍した。まるで、古い大木が切り倒され、新芽から森が再生されるように。
- 今、3度目の時代の節目にいるのかもしれない。
まとめ。
- 日本はユーラシア大陸の極東にあり、さらに中国が間にありクッションの役割をしていたので、いい意味で孤立してきた。しかも中国、朝鮮を通じてユーラシア大陸の文明は十分に吸収することができたという位置にあった。
- アメリカが太平洋航路における日本の拠点化を図り外圧をかけてくると状況は一変するが、日本は西洋の統治機構や技術をすばやく吸収して、戦艦の製造や紡績技術等でまたたくまに世界のトップクラスになるほか、中国やロシアを打ち負かし、アメリカに逆に宣戦布告するまでの勢力を手にした。
- 第二次大戦後に廃墟に等しかった日本は、アメリカ同盟関係のもと、30年ほどの間に復興と経済の繁栄をみせ、世界第二位の経済大国として、主要先進国首脳会議(サミット)や国連安全保障理事会のメンバーとなった。
- この背景に、ユーラシア大陸の影響を受けた一定水準の文化レベルが日本にあったことは『銃・病原菌・鉄』の環境の理論から分かるが、急速な発展を可能とした日本人の進取の気性、切替の早さ、公の精神、勤勉さ、手先の器用さなどはどのようにして説明できるのだろうか。
- この本は、このように人類の発展に対し、環境とは無関係な文化的特異性(非効率なキーボード配列の定着、カースト制度の存在、中国の儒教哲学など)が影響力を与えうることに言及しつつも、まだ答えが出ていないとしている。
- さらに、『龍馬伝』『坂の上の雲』に登場するような人物や廃藩置県を受け容れて日本の発展に寄与した地方の藩士たちのような傑出した個人の特質も歴史に影響を与えるワイルドカードとして、まだ答えが出ていないとしている。
私が本書を読んで重要だと思ったのは、競争性と多様性(寛容)が発展を産むこと。
そうみれば日本の急速な発展も、列強諸国の多国間競争に日本も参加しているという自覚や、幕府の解体で身分を問わず能力次第で立身出世できる人材多様性や西洋文明に対する寛容さと切替の早さが日本の近代化に大きな推進力を与えた。
この本は最後のほうにこう書いてある。
「環境は変化するものであり、輝かしい過去は輝かしい未来を保証するものではない」
日本の閉塞感に真剣な問いを。
- 「多様な公共」「東アジア共同体」「人材育成」など民主党の理念は多とするし、第三極をめざす新党(特に地方の首長の動き)も多様であっていい。
- これから先どうすればいいのか教科書のない段階に突入している。それでも歴史に学べば、国内外の競争や多様化が鍵だと分かる。
- かつては、食糧生産=富であったが、現在は様々なサービス産業や製造業もあり、富の形もいろいろである。では、日本は何で富を生み出していくのか、まず政治はココを明らかにする必要がある。
- 私は技術力と精細で多様な文化だと考える。もはやどこからか金銀が大量に発掘されるようなことはないだろうし。
- ただし、技術力だ!コンテンツ産業だ!観光だ!と愚直にやっているだけでよいのか。ファンドが利ざやで儲けたり、為替差損で利益が吹き飛んだり、海外で制裁金を課せられたりと、生産に基づかない金銭のやりとりや損得が起きる複雑な世の中になった。それならば、そのような複雑な社会における新たな価値観を提案し富を獲得するのがいい。
- 排出権取引や著作権収入、文化交流、平和活動など、このような仕組みと技術文化をリンクさせた形の無いモノが金を生むビジネスモデルを作り上げる構想力と国際的発言力を持ち、新たな富を創造していく必要がある。
- あとは、富の再分配のこと。政治は消費税か累進課税の強化か方針を明らかにすべきである。私は、全体のパイが増えそうにない今に消費税率を高くしたら困窮者はどうなるんだと言いたい。国民一人ひとりが己の富を追求するのではなく、国民全体が富を得ることを考えた富の再分配のあり方を考える必要がある。
- 核家族が進み一人暮らし世帯が増えているのは実は高コスト型の生活で何人か一緒にくらした方が割安なんだから、「家族が一緒に暮らす手当て」とか「地方に暮らす手当て」を導入することで、いろいろ単純ではないけれど、国民一人ひとりの生活コストを下げていく、地方に活力を与えるような再分配の方法を模索していくのがいいと思う。
●数字のつぶやき●
1000人→身元不明の死者/年「行旅死亡人」in日本『NHK無縁社会』、餓死凍死は途上国の話ではない。*Tw*
5000人→国内交通事故死者/年。*Tw*
3万人→国内自殺者/年。*Tw*
5万人→硫黄島の戦い日米戦死者、阪神淡路大震災死傷者。*Tw*
7万人→原爆死者長崎。*Tw*
10万人→関東大震災死者・行方不明者。東京大空襲死者。アメリカの日本人移民。明暦の大火死者。*Tw*
20万人→広島原爆死者。沖縄戦死者。日露戦争日本死傷者。*Tw*
平城京遷都1300年祭メイン会場オープン4月24日〜。*Tw*
上海万博5月1日〜開幕入場見込み7000万人以上。*Tw*
不平等条約には、法治国家が、法が未整備の国に対して自国が不利益を被らないために結ぶという側面があったのか。「関税自主権を行使させない」や「治外法権を認めさせる」など。今でも「死刑制度」がある日本に対しEUは治外法権的な拒否権を持つらしい。*Tw*
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