I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

民主主義2.0

昨年末の日記で選挙のことを書いた。
特段の政党や人物を想定したわけではない。


そうではないからこそ、投票に一種のジレンマを抱えていた。
投票する人物の考え方がすなわち自分の考え方ではない。
同じ考えもあれば違う考えも持つ、そんな人物に一票を託す。
それが現在の選挙制度の限界だ。


新年だから、ニューな話をしたい。
ネットで「直接政治」民主主義2.0
朝日新聞に載っていた。


情報通信技術を活用した直接政治。すなわち、国民の代表たる議員による間接政治を超え、住民ひとり一人の直接投票を政治に反映させる。そんな民主主義のバージョンアップだ。


地方議会や国会の間接政治の形骸化は、私が学生のころから問題になっていた。
議会で条例が可決されたのに、業界団体の反発が収まらない。おいおい、議員は何を調整していたんだよ。このような議員の政治手腕の劣化が目立つ。
また、各地で行われる住民投票は議会がもはや住民を代表し得ていないことの証拠であるといえる。
さらに、政党が選挙に縛り付けられて思い切った改革ができない。支持母体の既得権集団に政党が縛りつけられているのは、選挙の投票率が低く固定票で勝負が決まるからだ。
具体的には、国家公務員・議員の給与定数削減が出来ない、思い切った農業改革が進まない、通商国家としてブレない貿易戦略が打てない。
さらに、国会議員の場合は、支持率1%でも国民が直接辞めさせるしくみがない。
これらは議員を介した政治が抱える構造的な問題によるものが大きい。


本来、議員の役割は国民より多くの知識・情報と高い見識を持ち、事に処すことだった。
たとえ、国民の多くに反対されても必要な事は断行する。
そんな政治主導のために政治家は存在する。
例えば、戦後に通商国家と軽武装国家を貫いたのは、したたかで賢明な選択だったと私は思う。
その選択の貯金を使いきろうとしている今、次のビジョンを打ち出せる政治家がいない。
民主党には何百人という政治家がいるのに、彼らは国会で決められた票を投じるだけで個々の活動はよく分からない。
私が書くまでもなく、きっと地元からは「何やっているのか」とお叱りをうける毎日だろう。せいぜい役所や政府系機関に「口利き」するくらいの田舎議員みたいなことか、一民間人と同レベルの市民活動しかしていないのだろうと想像する。
でも、これが国民が選んだスキームなのだ。政党政治は犬でも議員が勤められるという言葉が外国にあったような気がするが、政党に属する議員の発言力など少ない。
また、政治献金制度の見直しにより派閥に資金が集まらなくなり、政党本部に政党助成金が入るしくみになった。つまり、カネのある政治家は別にして、政党本部に資金依存する政治家は誰も本部に文句をいえない。このことから一層の政党の一元化が進んだ。


要するに、議員のリーダーシップは無いし、議会による熟議の政治も行われていないのである。


以上のことから、議員を介した政治がうまく機能していない。
だからといって、民主主義2.0に飛びつくの節操がないが、インターネット等により国民一人ひとりが直接投票して条約、法律、予算を決めていけば、上記の政治の失敗、ゆがみが少なくなると私は考える。


しかしながら、直接投票に心配な面もある。国民が正しい選択をできるのかどうか。
現状、国民に十分な情報や判断材料が来ていると言えるだろうか。
マスコミが記者クラブ体質で役所が流した報道をそのまま流し、犬の遠吠えみたいな社説しか書いてない。年末のNHKの論説委員による深夜の討論番組も見たけど、議論することが必要だという議論をしていて何だか当事者意識がなかった。ジャーナリズムが役割を果たすかどうかが鍵だ。
次に、情報鎖国の懸念。多くの日本人は、日本語の読み書きしかできないから、外国の事について本当のところが分からない。もしかしたら、反日本政府の人が海外で評価されているのかもしれないけれど国民一人ひとりにはそれを読む力がない。情報鎖国と一緒だ。中国や北朝鮮は一部の海外情報を国民に隠す必要性を感じているが、日本人は外国語が読めないから政府は隠す必要すらない。国民に知らせたいようにメディアと一蓮托生で情報を翻訳してニュース流せばよい。もし、こういう状態なら国民は正しい選択ができない。
要するに、直接政治が成功するためには、国民の情報収集能力や読み解く力が高まる必要と、ジャーナリズムの役割が大きい。


それでも民主主義2.0が良いと思うのは、一票を分野ごとに誰かに託せる可能性があるからだ。
つまり、環境の分野の問題はA氏の意見が自分に近いからA氏に任せよう、軍備の問題はB氏の意見が自分に近いからB氏に任せようというような課題ごとの投票権の委任が想定されている。
現在の議員制度は、複雑化し多様化した課題すべてのスペシャリストに議員がなることが、ぼんやりと想定されているような気がするけれど、現実それは難しい。
それを補うために審議会のような専門家の検討がなされ、その結果が政策に反映されるのであるが、だったら議員いらないじゃんという状況に実際なっている。
重ね重ね書いてきたように議員が担うには現在の課題は質量ともに多すぎる。
だから、国民の直接投票制度プラス委任制度というのが、実はギリシャの時代から流れる民主主義の実現になると考えている。


しかし、もし議員を廃止したら、議員が受け止めてきた住民の不満が役所に直接来るので、例えば議員の秘書が5人としたら、廃止する議員×5人分の役所の増員が必要になるかもしれない。
当面は、なんだかんだ言ってて議員が頼りだ。ただし、議員に頼るときは非常手段・非常事態というイメージがあり、なんとなく議員に関わらずに生活を過ごせたらいいと思う。
否、重ね重ね議員に失礼なことを書いてきたが、全部ひっくりかえして議員に対する期待の表明であります。この駄文は。
「絆」が大切な現代社会の国民をつなぎ問題を解決する役割として議員の可能性は大きい。紅白歌合戦の司会を見事に果たしたグループ、嵐のリーダー大野くんみたいな存在が理想だな、議員の。


結論を。「民主主義2.0」は、これまでの議員を選ぶ一票ではなく、個別の決定に一票を投じるという改革であり、まさに、国民の選択に国民の総意が反映されると期待できる。
さらに、議員が背負いきれないほど多様化し複雑化した国民の価値観やニーズが反映されやすい利点がある。
議員が廃止されれば混迷する国会もなくなり、新聞も紙面を減らす事ができ、環境保護にもなるだろう。
実現にはいろいろな課題がありそうだが、規模の小さい自治体から始めてみるのは面白いかと考える。


スエーデンでは一部導入されている。まったく夢の話ではない。
ただし、条件付賛成という場合、その「条件」を誰が集約して調整して決定に結びつけるか、それが難しいから議会をつくり、限られた人数で物事を決定するというシステムが現実的なのか?ガーン!


新年の筆はじめ、でした。