I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

セッション!


映画セッション観た。感想文


精神の密室オカルト映画だと思った
さらに「他律」を超えて「自律」に至るという話だ
親離れの話といってもいい



■精神の密室オカルト映画


主人公が身体を物理的に閉じ込められる映画としては、
ミザリー、シャイニング、キューブなど沢山ある


本作は、精神が閉じ込める
最高の音楽学校の、最高の教師という権威に向かって


精神が、という点と、自ら進んで、という点が特徴と思う


日常生活に置き換えても、仕事や学校で同じようなことは
大なり小なりあるし、


「権威」というものを意識したときにも同様に、
精神の鳥かごに自ら放り込まれてしまうことになる


日常生活では、以外と自分も陥っている


仕事の〆切が!とか、
期待されている仕事の水準に達しないと!とか
いったい、それでどうなるのかって話だけど




■自律か他律か


象徴的なのは、前半でトロンボーン奏者が、
フレッチャーに詰められて、追い出される


何かというと、
フレッチャーは音程がずれていると詰めより、
トロンボーン奏者は、それを認める
そして追い出される
あげく、フレッチャーは言う
「あいつはズレてなかった。確信のなさが致命的になる」


なんだそれ?という話だ
しかし、私はこの場面で、トロンボーン奏者に
(間違ってないなら、ないと言えばいいのだ)
と念を送っていた


日常生活に置き換えると
上司にダメだしされて、すなおに引き下がる自分
ダメだしを怖れて、上司に報告すらためらう自分
がいる


私は、「自分がこう思う。これがベストだ」
そう確信をもっていけばいいのだと思った
それで否定されたとしても、
それで失うものって実はないんじゃないか?
そう、根拠のない自信を覚えた


これが、他律でなく自律だと思う



さて、父が主人公にこういう場面がある
「教師の言葉は、ためになったか?」
これに対する主人公の表情からは、
「はあ?ためになること以外ない。なぜなら最高の学校と最高の教師だから」
という気持ちが読み取れた


これは、他律だ
他律だと、ただ受入れるばかりで、
それがどういうことかまで考えていない。
だから、「ためになったか?」と聞かれても答えの引き出しすらない


一方、物事を自分に引き寄せて考える自律だったならば、
「ためになるかどうか」と聞かれたら、何かしら思い浮かぶことはあるはずだ
教師のやり方に疑問を持ち、別の行動もとれたかもしれない


つまり、他律だたと、誰かに依存、期待、恐れ、従属することになり、
それは復讐といった形にを結びつく


ときに、主体的、能動的という言葉もあるが、
主人公の場合は、主体的、能動的に他律に従っていく


さらには、名誉欲、あこがれ、幼少時の褒められ体験などに
基づき自律的に、その手段として他律だったという
細かい理屈になるわけであり、
そこがオカルト的であり、身に置き換えても区別が難しい


でも、繰り返すがフレッチャーはこう言った
「あいつはズレてなかった。確信のなさが致命的になる」
フレッチャーは、オケを支配しながらも、
ノーと言える者がいない不甲斐なさも感じて苛立っていた
そう考える



■親離れ


また、フレッチャーという教師の束縛を打ち破った
ラストにおける主人公の行動
フレッチャーとの関係性が、自律対自律として
再構築された瞬間


それを、見つめる父親の目
なれ合いのエリート嫉妬体質の家系から飛び抜けた
覚悟もしくは狂気を息子に認めた目



・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ただし、そこに音楽はあったか?
そう問われると、なんだかゲームのハイスコアを競い合うようで、
観客は映らないし、他のバンドメンバーに対しても
操作的に振る舞ってるし


音楽家とくにJAZZミュージシャンが、
本作品をそれほど評価していないらしい。


ネット情報によると、
本来のジャズ業界は、そんなんじゃないのに、
多くの映画鑑賞者がジャズを深く知らないのをいいことに、
登場人物の確執の舞台装置として、ジャズを都合良く描いた
これをもって、ジャズって、一流になるってこうなんだ
などとは思って欲しくない
だって、登場人物の誰もジャズを楽しんでないじゃないかと


また、ラストの盛り上がりで、
音楽が生気をを帯びて流れ、すべてを昇華したと
観客が思ったとしたら「それは違う」と声を挙げたのが、
ジャズミュージシャンで、
それが、音楽通・マニアサイドからの意見ではなく、
本来の作品の読み方として、映画評論家として提示された
こと
そして、著作もある映画評論家が逆に、音楽で皆ハッピーという
大団円だと認識していたという、
Yahoo!トップニュースにもなった場外セッションが
興味深い


実は、監督も本作品を通じて、音楽業界を
風刺している可能性がある
途中で、「音楽業界は汚い世界だと聞いている」と
登場人物に言わせている
鬼教師という設定も、ビッグバンドも古臭い


あるいは、音楽は本作において大道具と一緒なのだ
それが許せるかという問題があるけど
今回、「セッション」をネット検索したら、
メンタルの個別カウンセリングがいくつも出て来た
なるほど、音楽よりも精神性が的になっている


ラストシーン、お互いがドヤ顔し合うとき、
会場の拍手は聞こえていたのか?
もしかすると、鳴ってなかったのでは
鳴っていたとしても、それは二人の妄想ではないのか?


そんな風に、いまだに精神の密室ルーティンに私は
陥っている。感染性大の映画でした