推し、燃ゆ読んだ。
わたしの妻も推しのいる人なもので、作品で描写された推し部屋の様子、推しをかわいいと言う、Liveへの執着、直接会って暮らしたいのとは違うらしい、少しダサいと言いながらグッズ全部買うのとか妻と同じで作者は妻かと焦った。推しに対する献身を自らに課すようなところも
付き合う前に言われたのは、自分は推しを一番に優先するがそれでいいかとわざわざ念押しされて、その時はなんでわざわざそんなこと聞くんだろうと思ったけど、おしもゆ読んで妻をいまさら理解したような気がしたり
馬券は要するに自分を買うんだと誰かが言った。推し燃ゆはそれに加え、エヴァンゲリオン旧劇場版で(気持ちいいの?)と観客席を映し出した問いの成分も含んでいると思った。まとめて言語化することは私にはできまセン
推し、燃ゆの小説内リアルの家族との距離感。少し遠い。リアルの距離は近くても心の距離を遠ざけておく気楽さを享受しておきながら、リスクを減らしたいときだけ心の距離を詰めてくる。操作してくる。
推しとの距離感もそれと同じで、あくまで自己都合で推したいときだけ推す。リモコンのスイッチやスマホの画面を押すのと同じに感じた。
でも、推しはスイッチとは違う。楽器とも違う。例えばピアノの鍵盤は押した鍵盤と違う音は返さない。
推しは思うように生きてくれるとは限らない。押した音と違う音を返すこともあるだろう。
リアルの人間関係も同じ。いつまでも「親子」「兄弟姉妹」「恋人」「夫婦」というグループ名で自分の期待に応えて動く演者でいるとは限らない。
リアルの人間関係を維持するのは面倒の繰り返しだ。意に沿わない話を聞かされたり、やりたくないことを頼まれたりする。自分ができること、やりたいこと、正しいと思うことだけ相手にしていても喜ばれないので張り合いがない。時にいらいらいら
だから、都会では家の周りに住んでいる人の名前も顔も知らないし、双務的な関係はもちろんない。だから地域のリセットボタンが押された昭和から平成の流れ
それが、令和に入って、家族の中でも双務的な関係は面倒だ。家族の名前も顔も忘れたい。
GIVEのないTAKE またはGIVEの形をとるTAKEがいい 家族のリセットボタン
でも、
これが孤独がさびしいということなのか、
これが人を放っておかない社会システム
家族、学校、職業、結婚、地域の同調圧力の残滓なのか
渦中の自分にはわからない
かつて、結婚はしたくない。でも、結婚しているという状態は欲しいと言った人がいた
双務的な関係は嫌だけど、ラベルは自分に付けたいということだと思った
また、職業についてもジョブ型雇用が言われている。
自分ができる仕事、やりたい仕事だけできる雇用形態。終身雇用のときは会社から言われた仕事はなんでもしなくてはいけなかったが、ジョブ型雇用では、それは私の仕事ではないと断れるシステム
ジョブ型雇用は自分のやりたい、できる推し方で会社に貢献するシステムともいえる。契約にないことはしなくていいという意味で双務性が限定的
こんな風に人の生き方から面倒な双務性が排除されていく
それもいい、それに萌える。私のねがいが打ち上がって燃えた